2008年02月05日

パヴィーアの僧院&ロンバルディアの古都






☆ 地図と写真(panoramio)



 パヴィーア(Pavia)は、イタリア、ロンバルディア州パヴィーア県の県都で、人口約7万人。ミラノの南約25km、ジェノヴァ方面への列車で約30分。

 ティチーノ川(Ticino)の川沿いに広がり、南には蛇行して流れるポー川(Po)があり、そこから起伏に富む丘が続き、東には、ロメッリーナ(Lomellina)の水田があり、パヴィーア米というインディカ種の最高品を産するイタリア有数の穀倉地帯。

 パヴィーアは、元々はリグーリア人によって築かれた町で、古代ローマ時代には、ティキヌム(Ticinum) と呼ばれ、交通の要衝であるとともに、重要な軍事拠点であった。

 476年、西ローマ帝国のゲルマン人の傭兵であったオドアケル(Odoacer、433-493年)は、将軍フラウィウス・オレステスに対して反乱を起こし、その際、将軍に味方したこの町は、徹底的に破壊された。

 さらに、オドアケルは、オレステスの息子の皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位し、自らを、東ローマ帝国皇帝ゼノンの代理として、イタリア王(在位:476-93年)に即位、ラヴェンナを中心としてイタリアを統治した。

 しかし、オドアケルは、東ローマ帝国への内政干渉に失敗し、東ローマ皇帝ゼノンから討伐を命ぜられたテオドリックが、これに成功。テオドリックはその功として東ローマ帝国からイタリア支配を承認され、東ゴート王国(493-552年)が成立した。テオドリックが亡くなると、ローマ帝国の再統一を進めるユスティニアヌス1世が東ゴート王国を滅ぼし、短命に終わった。

 この間、パヴィーアの町は要塞化され、東ローマ帝国の将軍ベリサリウスとの戦いの最後の防波堤となった。

 568年、ランゴバルド族がアルプス山脈を越えてイタリアへ侵入し、北イタリアを東ローマ帝国から奪い、ランゴバルド王国を建国し、パヴィアが首都となった。ポー川流域一帯は、ロンゴバルド人の土地と言う意味で、現在のロンバルディア州の語源になった。

 さらに、ランゴバルド王国は、中部イタリアも東ローマ帝国から奪い、さらに、ローマ市を包囲するなど、ローマ教皇にも圧力を加えた。

 ローマ教皇ハドリアヌス1世が、フランク王カール(後のカール大帝)に援助を求め、これに応じたカールによって773年に攻撃を受け、首都パヴィーアは占領された。デシデリウス王は捕虜となり、774年にランゴバルド王国は滅亡し、カールの支配下に入った。

 歴代のランゴバルド王が身に着けていた「ロンバルディアの鉄王冠」は、ランゴバルド滅亡の後、カール大帝をはじめ、ロンバルディア王、すなわち北イタリア王を兼ねた神聖ローマ皇帝の戴冠式で用いられ、後世ではナポレオン・ボナパルトやオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世もこれで戴冠した。

 12世紀には、パヴィーアは、コミューンとしての自治を獲得。イタリアの中世は、教皇派と皇帝派との勢力争いが特徴的だが、パヴィーアは、ライバルのミラノに対抗して皇帝派ギベリン(Ghibellino)についた。

 1361年、パヴィーア大学が創設された。

 1395年、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351-1402年)が、神聖ローマ皇帝ヴェンツェルから、ミラノ公・パヴィーア伯に任じられ、正式にミラノ公国を成立させた。ロンバルディアの首都が、パヴィーアからミラノに移された。

 1396年、ミラノとパヴィーアの中間にあった同家の狩場近くに修道院(Certosa)の建築が始まった。

 1525年、パヴィーア城で、神聖ローマ皇帝カール5世率いる皇帝軍(スペイン)軍とフランス王フランソワ1世率いるフランス軍の「パヴィアの戦い」が起こった。

 前線で指揮を取ったフランソワ1世が、捕虜となってスペインで幽閉された。その後、パヴィーアでは、1713年まで、スペインの占領が続いた。

 さらに、その後は、オーストリアの支配下に置かれ、1796年には、ナポレオン軍が占領した。

 1815年以降は、再度オーストリアの支配下に、1859年のイタリア独立戦争を経て、翌年イタリアが統一された。



見所:

 11〜13世紀に繁栄し、ロマネスク時代に、数々の大聖堂や宮殿、塔が建てられ、パヴィーアは「百の塔のある街(Citta` delle Cento Torri)」と称えられ、現在もレンガ色の街並みが当時を偲ばせる。南北に貫くストラーダ・ヌオヴォ通りの沿道には、ヴィスコンティ城、パヴィーア大学などが建ち、コペルト橋へ続く。



○ パヴィーアの僧院(Certosa di Pavia)
 パヴィーアの町から8km北にあり、1396〜1465年の間に、修道院(Certosa)や教会が建てられ、ゴシック様式、ルネサンス様式の華やかな建築物と、美術品のコレクションで名高い。

 神聖ローマ皇帝ヴェンツェルから、ミラノ公・パヴィーア伯に任じられたジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351-1402年)が、ミラノとパヴィーアの中間にあった当時のヴィスコンティ家の狩場の端に、1396年に礎石を置き、建築が始められた。

 修道院は1452年頃、同家の霊廟としての教会は、ゴシック様式の身廊で、1465年に完成、1497年に献堂された。ファザード下部は、1507年に完成。彫刻で飾られた大理石のファザードが美しい。

☆ 写真(panoramio)



○ コペルト橋(Ponte Coperto)
 ティチーノ川に架かる長さ210m、幅16m、赤茶色の切妻屋根を持つ大きな橋で、第2次世界大戦で破壊され、戦後1955年に再建されたものではあるが、いにしえの風景を創り出している。

☆ 写真(panoramio)





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posted by トラベラー at 21:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | イタリア
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