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テルエル(Teruel)は、スペイン東部内陸、アラゴン州、テルエル県の県都で、人口は約3万4千人。マドリッドからは約300km。
テルエルは、メセタ高原の北東部、トゥリア川に臨んだ山間の絶壁の上にある町で、標高は915m、大陸性気候のため冬は厳寒、夏も暑い。
テルエルは、8世紀以降、イスラムの支配下にあったが、11世紀初頭、コルドバの後ウマイヤ朝が内乱で崩壊すると、イベリア半島のイスラム勢力は分裂し、タイファ諸国のバレンシア王国の支配下にあった。
1238年、アラゴン連合王国のハイメ1世(在位:1213〜76年)によって、バレンシア王国が征服され、アラゴン王国が拡大した。
テルエルは、レコンキスタによりキリスト教圏に入ったが、優れた建築技術を持ったイスラム教徒ムスリムは、残留することを許され、平和裏に共存したことで知られている。これらのムスリムがムデハルと呼ばれた。
彼等は、レンガや装飾タイルなどのイスラム建築の建材と、菱形の編み目や幾何学模様の寄せ木細工などの装飾によって、西欧的なものとを巧みに組み合わせ、ムデハル様式の建築物を生み出し、12〜16世紀のテルエルの黄金期に多くの建築物を造っていった。
1259年、元の教会のあった場所に、今日の大聖堂が建てられた。
中世の14世紀には、ユダヤ人のコミュニティがあり、商業や毛織物業を生業とし、高額の税金を納めることで、幾つかの特権を得ていた。
しかし、1391年には、キリスト教への改宗を求められ、これに従わない者は命を奪われる迫害が起こった。
その後、スペインの中心がマドリードへと移行し、さらに、新大陸の発見で、地中海のバルセロナの衰退などから、山間部の交易路にあったテルエルも取り残されることに。
また、スペイン内戦でも、1937〜38年の「テルエルの戦い」は最も激しく、悲惨な戦いで、共和国軍とフランコ軍人民戦線政府、反乱軍、双方の犠牲者は3か月間で10万人に上った。
見所:
テルエルには、イスラム教徒の影響による美しい建築物があり、旧市街にある華麗なサンタ・マリア大聖堂(Catedral)など、4つの教会が、「アラゴンのムデハル様式の建築物」の一部として世界遺産に登録されている。1986年に、「テルエルのムデハル様式建造物」から、登録対象の拡大により、2001年に名称が変更された。
☆ 世界遺産登録物件;
☆ サンタ・マリア大聖堂(Catedral de Teruel)(Cathedral of Santa María de Mediavilla、サンタ・マリア・デ・メディアビージャ大聖堂)
1259年に建築され、テルエルのムデハル様式の中では最古のもので、外壁は、レンガと彩色タイルで埋め尽くされている。
大聖堂の天井は、野菜の模様、幾何学模様、エピグラフィア(碑銘学)模様というムスルマン文化の伝統が見られる。
☆ サン・ペドロ教会(Churches of San Pedro)と塔
ムデハル様式の塔を持つ16世紀のサン・ペドロ教会は、スペイン内戦で損傷を受け、後に修復された。
ここには「テルエルの恋人たち」の悲話の主人公ディエゴとイサベルの遺骸が安置されていることで有名。
13世紀に、裕福な家の女性イサベルと、貧乏な家の男性ディエゴが愛し合ったが、イサベルの父親は、5年の間に富と名誉を手に入れて来るという条件を出す。
ディエゴが苦労の末に戻ると、イサベルは父親の選んだ名家の男との結婚式を終えたばかり。ディエゴが亡くなり、イサベルも葬儀後、その遺体に取りすがったまま、息絶えていたというもの。
伝説化していた彼らの墓が16世紀になって発見され、サン・ペドロ教会の安置室に並べて指を絡めて眠っている。
この物語に触発されて、サラマンカ出身のスペイン後期ロマン派音楽の作曲家トマス・ブレトン(Tomás Bretón)がオペラを作曲している。
☆ サン・マルティン教会と塔(Torre de San Martín&Church of San Martín)
教会は、17世紀の建築だが、ムデハル様式の塔は、13世紀の建築で、テルエルで最も美しいとされている。壁に飾りとして組み込まれているのをアルコ・ロブラドと呼ぶ。
☆ エル・サルバドル教会の塔(San Salvador tower)
塔は、鐘楼まで登ることが出来る。
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