2010年03月22日

世界遺産「サラマンカの旧市街」 黄金の都市 サラマンカ






☆ 地図と写真(panoramio)



 サラマンカ(Salamanca)は、スペイン西部、カスティーリャ・レオン州の南西部、サラマンカ県の県都で、人口は約17万人。マドリッドの北西約180km、列車で約2時間半。また、130km東にはセゴビアがある。

 サラマンカは、ヨーロッパのルネサンス文化の栄えた都市の1つとして知られる。付近で採れる砂岩で造られた建築物は、何世紀のも年月の間に金色に輝きを増し、黄金の都市(La Ciudad Dorada、The golden city)と呼ばれるようになった。

 また、スペイン最古の大学が13世紀初頭に創設された大学街で、大学や大聖堂を含め、マヨール広場を中心にスペイン独自の建設様式をもつ建造物が建ち並び、サラマンカ旧市街全体が、世界遺産に登録されている。

 元々はケルト系の民族による集落があり、紀元前3世紀、カルタゴの将軍ハンニバルに占領された。カルタゴがローマに敗れた後、この地方の商業の中心地となり、サルマンティカ(Saimantica)と呼ばれた。

 トルメス川(Tormes)に架かる長さ150mのローマ橋は、トラヤヌス帝(在位:98〜117年)の時代に架けられ、現在の橋を構成する26のアーチのうち、15がローマ時代のもの(他は16世紀のもの)。

 8世紀以降、イスラムがイベリア半島の過半を支配した時代には、サラマンカはキリスト勢力との狭間にあり重要ではなかったが、その後11世紀後半にキリスト教勢力によって奪回されると、発展の時代に入った。

 12世紀には、ロマネスク様式の旧カテドラルが創建された。

 1218年、レオン王国のアルフォンソ9世(在位:1188〜1230年)の治世下、スペイン最古の大学であるサラマンカ大学が創立された。ボローニャ大学(1088年)、オックスフォード大学(11世紀)、パリ大学(Sorbonne、1211年)に次ぐ古い大学で、正面、ファサードはプラテレスコ様式の傑作。

 16世紀は、サラマンカの黄金期で、南米から流入した金が、大学の建物をはじめ、今日まで残る建築物、記念物の資金とされた。新カテドラルも、16〜18世紀に建築された。

 18世紀始め、マヨール広場(Plaza Mayor)が整備され、2万人を収容でき、当初はここで闘牛が行われた。隣接して、街の中央市場がある。

 1808年、ナポレオン率いるフランス軍の侵攻によって、街は破壊され、大学も閉鎖寸前であったが、1812年、戦史上有名なサラマンカの戦いでは、対仏同盟軍が、フランス帝国軍に大打撃を与えた。数時間のうちに何千人もが砲火で戦死した、戦史上決定的な出来事であった。

 また、20世紀のスペイン内戦では、フランコ側の重要な拠点となった。



見所:

○ マヨール広場(Plaza Mayor)

 フェリペ5世の治世下、1755年にアルベルト・チュリゲラの設計により完成したものでスペイン一美しい広場と称えられ、広場北に、時計台のある市庁舎がある。夜のライトアップも美しい。

 広場周辺の建物は、17世紀後半〜18世紀、多くの建築家や彫刻家をかかえたチュリゲラ一族によることから、チュリゲラ様式と言われ、スペインバロック末期の代表的様式。

☆ 写真(panoramio)



○ 貝の家(Casa de las Conchas)

 15世紀にゴシック様式で建てられ、サンチャゴへの巡礼者を守る騎士団の邸宅であった。聖ヤコブのシンボルであるホタテ貝の模様で埋め尽くされている。マヨール広場から続くマヨール通り中程にある。

☆ 写真(panoramio)



○ サラマンカ大学(University of Salamanca)

 アルフォンソ9世によって、1218年に創設され、「知識を欲するものはサラマンカへ行け」と言われるほどになった。大学正面のレリーフが見どころ。「新大陸」の統治にむけての法的整備や、対抗宗教改革(反宗教改革)の諸思想が形成された。

 サラマンカ大学のファサードは、プラテレスコ様式と呼ばれ、15世紀末〜16世紀前半、イタリアルネサンスがスペイン風に採り入れられたもの。植物模様や、円形や楕円形のメダルのような模様(メダイヨン)の浮彫が特徴。

☆ 写真(panoramio)



○ 旧カテドラル(Catedral Vieja)

 12世紀のロマネスク様式の旧カテドラルは、内部に53枚の祭壇画と、「最後の審判」を描いた見事なフレスコ画がある。

☆ 写真(panoramio)



○ 新カテドラル(Catedral Nueva)

 16〜18世紀のゴシック様式の新カテドラルは、プラテレスコ様式のファサードで彫刻が見事。また、内部には、細密な彫刻が施されたチュリゲラ様式の聖歌隊席や礼拝堂が見られる。

☆ 写真(panoramio)



○ サン・エステバン修道院(Convento de San Esteban)
 17世紀に造られたドミニコ会の修道院。

☆ 写真(panoramio)





☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集(fotosearch.com)

☆ 写真集(trekearth.com)

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☆ 写真集

☆ www.tourspain.org

☆ www.salamanca.es

☆ 市街地図

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★Salamanca Capital europea de la cultura 02


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★Salamanca Cultural (País Leonés Sur)


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★SALAMANCA, VISIT TO SALAMANCA'S CATHEDRALS 2007


YouTube動画 その13
★SALAMANCA (fotografia)


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★Alba de Tormes Salamanca




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2010年03月19日

世界遺産「ブルゴス大聖堂」 スペイン3大カテドラル






☆ 地図と写真(panoramio)



 ブルゴス(Burgos)は、スペイン北部、カスティーリャ・レオン州、ブルゴス県の県都で、人口は約17万人。

 アルランソン川沿いの丘陵地帯に位置し、バスク地方とカスティーリャ地方を結ぶ交通の要所。

 古代よりケルト人の集落が存在していたが、アウグストゥスの治世には、イベリア半島のほとんどが制圧され、ヒスパニア・タラコネンシスの領域に含められた。

 その後、5世紀には西ゴート族、8世紀には、アラブ人によって支配された。

 8世紀半ばには、アストゥリアス王国(718〜914年)のアルフォンソ1世(在位:739〜757年)がアラブ人を撃退し、その後、多くの城を築いたため、城の国、ラテン語でカスティーリャ(Castile)と呼ばれることに。

 880年頃、キリスト教徒のレコンキスタ(再征服運動)の初期に当たり、アストゥリアス王国によって、軍事上の前線基地として城塞化された。

 10世紀には、カトリック教会の司教座が置かれた。

 1037年、フェルナンド1世(在位:1037〜65年)が、カスティーリャ王国(1037〜1504年)を築き、ブルゴスが首都になった。

 ブルゴスは、サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう巡礼者の主要な滞在地で、ビスケー湾とイベリア半島南部を結ぶ交易の中心地として外国の商人達が集まり、市の寡頭政治を担う者も現れた。

 1180年、アルフォンソ8世(在位:1158〜1214年)によって、ラス・ウエルガス修道院 (Monasterio de las Huelgas)が、街の郊外に創設され、後に、王族達の埋葬所にも使用された。

 13〜14世紀には、レオン王国(914〜1109年、1157〜1252年)との同君連合のカスティーリャ・レオン王国の王達のお気に入りの街となり、歴代の墓所もここに設けられた。

 1221年、サンタ・マリア・デ・ブルゴス大聖堂(Catedral de Santa Maria de Burgos)の建設が、カスティーリャ王フェルナンド3世(在位:1217〜52年)と、イングランド出身のブルゴス司教マウリシオの命で始まり、フランス人や後にドイツ人の建築家を雇って、1567年に完成した。

 1479年、カスティーリャの王女イサベルとアラゴンの王子フェルナンドとの結婚により、カスティーリャ・レオン王国とアラゴン王国との同君連合が成立し、スペイン(イスパニア)王国(Spanish Monarchy)が誕生したが、それぞれ自治が尊重された。

 1574年、教皇グレゴリウス13世は、ハプスブルク家出身のスペイン国王フェリペ2世の求めに応じ、ブルゴス司教から、ブルゴス大司教に格上げされた。

 1984年、「ブルゴス大聖堂 」が、世界遺産に登録された。

 ブルゴスは、アラブとの戦いや、レオンとナバラ、カスティーリャとアラゴンとの勢力争いの場となり、ナポレオン戦争、19世紀のスペイン継承戦争、さらには、20世紀のスペイン内戦では、フランコ側の拠点となり、いずれにおいても戦いが絶えなかった歴史がある。

 街には、叙事詩『わがシドの歌』の主人公としても知られるスペインの英雄、エル・シッド(El Cid、1045年頃-1099年)の出身地であり、レコンキスタでの活躍地であったため、像が建てられ、ブルゴス大聖堂に埋葬されている。



見所:

〇 サンタ・マリア・デ・ブルゴス大聖堂(Catedral de Santa Maria de Burgos)
 ブルゴス大聖堂(Catedral de Burgos)とも呼ばれ、聖母マリアに捧げられた巨大でユニークな北フランス風ゴシック様式の建築物として有名。トレド、セビリアとともに、スペインの3大カテドラルと言われている。

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真(panoramio)



〇 ラス・ウエルガス修道院 (Monasterio de las Huelgas)

 カスティーリャ王の夏の離宮であったものが、1187年に、アルフォンソ8世によって、修道院として創設され、王族の結婚式の場として、また、王族の埋葬所にも使用された。

☆ 写真集 @ A B C D E F G 

☆ 写真(panoramio)





☆ 写真集

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★Catedral de Burgos


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★Catedral de Burgos


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★BURGOS




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2010年03月08日

世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館」






☆ 地図と写真(panoramio)



 セビリア(Sevilla、英:Seville)は、スペイン南部アンダルシア州の州都で人口は約70万人。

 セビリアは、グアダルキビール川(Guadalquivir)沿い、河口から80kmに位置するが、大西洋からセビリアまで船舶が航行できるため、港湾都市として発達した。闘牛やフラメンコの本場で、スペインを代表する観光都市の1つとなっている。

 古代イベロ人の居住地で、古代ローマ帝国の時代には、Hispalis と呼ばれ、5世紀にはヴァンダル族に、6世紀には西ゴート族に占領された。

 712年には、イスラムの支配下に置かれ、アラビヤ語風に Isbilya と改称された。844年には、ノルマン人の占領、略奪に遭ったが、その後、平和が戻って絹の取引きで栄え、10世紀には、重要な商業都市となっていた。

 12世紀には、レコンキスタにより北方からの脅威が迫っていたものの、アルモハード朝(1130〜1269年)の首都となり、城壁の外にブアイラ宮殿(La Buhaira)が建てられ、グアダルキビール川に橋が架けられた。1172年から、新たなモスクの建設が始められた。

 1220年以降、アルモハード朝の衰退は著しく、城壁の改修やオロ塔の建設が進められたが、1248年には、15か月の包囲の末、カスティーリャ王フェルナンド3世のセビリア入城によって終止符が打たれた。

 その後、15世紀後半、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によってスペイン王国が成立し、同世紀末には、レコンキスタが完了した。

 さらに、セビリアから出帆したコロンブスが、1492年、新大陸を発見した。これにより、新大陸からもたらされた物資が、川を上り、セビリアに運び込まれるようになり、セビリアは、新大陸との貿易を独占する港として繁栄を極めた。

 1526年、ハプスブルク家出身のスペイン王カルロス1世(在位:1516 - 56年)兼神聖ローマ皇帝カール5世(在位:1519 - 56年)は、ポルトガル王マヌエル1世の王女イザベラとの結婚式を、この地のアルカサルで挙行した。この際、アルカサルはルネサンンス様式に改築された。

 1671年には、45の修道院と28の女子修道院を擁する宗教文化都市となっていたが、1649年には、ペストの大流行が起こった。その被害は甚大で、セビリアは、衰退して行くことになった。

 一方で、17世紀には、芸術が大きく開花し、絵画ではムリーヨ、バルデス・レアル、彫刻ではマルティネス・モンターネェスなどセビリア生まれの芸術家達が活躍した。

 19世紀、スペイン立憲革命では、セビリアは自由主義者の拠点となり、20世紀のスペイン内戦では、アフリカに近い位置にあることから、早期にフランコ軍に占領された。

 1992年には、セビリア万博が開催された。



見所:

 セビリアの市街地の中心部には、大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館の3つが一体となって、驚くべき巨大施設が形作られている。

 これらは、1248年以降16世紀までの間、それまでのムスリム文化と、アンダルシアのクリスチャン文化が併存、融合していったことを物語る典型的な建造物である。

 1987年に、「セビリアの大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館」として、世界遺産に登録されている。

○ セビリア大聖堂(Catedral de Sevilla)
 旧市街中心部にあり、1401年にモスク跡に建設が始められ、1519年に完成した。

 面積、容積ともに中世ゴシック教会の中で最大級に数えられ、5つの身廊を持ち、その身廊の長さはスペインで最大。(トレド大聖堂もスペイン最大を唱えており決着していない。ちなみに、1位はローマのサン・ピエトロ大聖堂、2位はロンドンのセント・ポール大聖堂。)

 大聖堂の柱や基本構成は、モスク由来のもので、惜しみなく金を使った装飾が施され、ここに、クリストファー・コロンブスの墓がある。

 大聖堂の隣りに建つ12世紀のヒラルダ(Giralda)の塔も、アルモハード朝時代の建築傑作で、モスクの尖塔(ミナレット)が鐘楼に変えられ、上部はゴシック様式になっている。



☆ 写真(panoramio)



○ アルカサル(Real Alcázar de Sevilla)
 大聖堂に向き合ってトリウンフォ広場(Plaza del Triunfo)の南側にある。

 9世紀のムスリムの宮殿跡地に、1248年のレコンキスタ後、14世紀後半にスペイン王室の宮殿として建築が始められ、15世紀から16世紀にも増築された。

 残留イスラム教徒(mudajjan)の建築様式とキリスト教建築様式とが融合したムデハル様式 (estilo mudejar)を主体に、一部にルネサンス様式も混在する。

 庭園はムーア、アンダルシア、クリスチャンの伝統が入り混じっている。

☆ 写真集(www.picturechoice.org)

☆ 写真集(PBase)

☆ 写真集(en.structurae.de)

☆ 写真(panoramio)



○ インディアス総合古文書館(Archivo General de Indias)
 ルネサンス様式の旧商品取引所(Casa Lonja de Mercaderes)が、現在は、公文書館となっている。

   1572年に、フェリペ2世の命を受け、エル・エスコリアルを手がけた建築家フアン・デ・エレラによって建てられた。

 スペインが領有したアメリカの植民地についての貴重な文書を所蔵している。

 セビリア大聖堂、アルカサルとともに、世界遺産に登録されている。

☆ 写真(panoramio)



○ オロ塔(Torre del Oro)
 13世紀に、グアダルキビール川からセビリアへ入る船を監視するため、アルモハード朝時代に造られた見張り塔で、現在は、海事博物館(Museo Naval de Sevilla)が入っている。

☆ 写真(panoramio)





☆ 写真集(PBase)

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集(www.ianandwendy.com)

☆ 写真集(fotosearch.com)

☆ 写真集(trekearth.com)

☆ 写真集(flickr.com)

☆ 写真集(wolpy.com)

☆ www.exploreseville.com

☆ www.sevilla.org

☆ www.aboutsevilla.com

☆ ユネスコ世界遺産HP



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★Seville - Spain


YouTube動画 その2
★Real Alcázar de Sevilla.


YouTube動画 その3
★Spain - Seville


YouTube動画 その4
★The Glory of Columbus: Seville Cathedral


YouTube動画 その5
★Seville


YouTube動画 その6
★Real Alcázar de Sevilla


YouTube動画 その7
★Los Jardines del Alcázar (Sevilla)


YouTube動画 その8
★Sevilla Turismo


YouTube動画 その9
★Sevilla - Andalucia es de cine - Sevilla I


YouTube動画 その10
★Sevilla - Mucho que ver (segunda version)


YouTube動画 その11
★Seville, Spain


YouTube動画 その12
★Sevilla Siglo XXI


YouTube動画 その13
★Seville's Cathedral Square and Alcazar: a slideshow


YouTube動画 その14
★Sevilla,Catedral


YouTube動画 その15
★SEVILLE, OLD TOWN CATHEDRAL.


YouTube動画 その16
★Seville - places to visit




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2010年03月05日

華麗なるステンドグラス レオン大聖堂






☆ 地図と写真(panoramio)



 レオン(Leon)は、スペイン北西部、カスティーリャ・レオン州のまた北西部にあるレオン県の県都。

 近隣の都市としては、約85km北にオビエド、マドリッドは、南東約340km、車で3時間半余り。

 レオンは、紀元前1世紀にローマ軍の駐屯地が築かれ、アウグストゥスの治世には、属州ヒスパニア・タラコネンシスの領域に含められ、アストゥリアスやカンタブリアの山賊や、この地で採取された金の輸送を守るため街が造られた。

 5世紀には西ゴート族が侵入してきたが、これに抵抗し、要塞を保持することを認められた数少ない街の1つであった。

 8世紀には、アラブ人の進攻の際は、ローマ人が築いた要塞によって、文字通り、スペインの最後の砦となり、850年頃、アストゥリアス王オルドニョ1世(Ordoño I、在位:850〜866年)が、街を復活させた。

 914年、オルドニョ2世によってレオン王国が建てられ、レオンは首都となり、最も重要なキリスト教都市となった。

 987年、コルドバを都にしていた後ウマイヤ朝の宰相で、名将であったアル・マンスール・ビッ・ラーヒ(Almanzor)による略奪を受けた。  アルフォンソ5世(在位:999〜1028年)によって再建され、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者が増え、街は活性化、商人や手工業者で賑わい、13世紀までには政治的影響力を持つに至った。

 13世紀半ばに、レオン大聖堂の建築が始まり、完成には、最終的に16世紀末までかかった。  中世には、畜産業が発達し、街は繁栄したが、16世紀になると経済、人口とも衰退し始め、これが19世紀まで続いたが、1960年代から、周辺地域からの人口流入が著しく、活性化した。



見所:

 旧市街には、10世紀に築かれた城壁が残り、9世紀から現在に至るまでサンチャゴ巡礼路の要所となっている。

  〇 レオン大聖堂(Santa María de León Cathedral)

 13〜16世紀にかけて建築され、スペインの初期ゴシック建築の傑作。聖ヤコブ像や死者の審判などの彫刻が見事。また、100枚以上のステンドグラスは圧巻。

☆ 写真集

☆ 写真集(PBase) @ A B C D E F G H I

☆ www.leon.es

☆ 写真(panoramio)



〇 サン・イシドロ教会(Basílica de San Isidoro de León)

 8世紀に建てられ、天井に描かれたフレスコ画ロマネスク美術の傑作と言われる。

☆ 写真(panoramio)



〇 ボディーネス邸(Casa de los Botines)

 カタルニア地方以外では珍しい、ガウディ(Antoni Gaudí)によるネオゴシック様式のボディーネス邸は、現在は銀行に。

☆ 写真(panoramio)



〇  旧サン・マルコス修道院 (Monasterio de San Marcos)

 1515年頃に修道院として建てられ、サン・マルコス広場にあり、巡礼者を収容する病院として使用され、現在はスペインで最も豪華なパラドールに。プレテレスコ風のファザードが特徴。

☆ 写真(panoramio)





☆ 写真集(PBase) @ A B C D E  

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集(trekearth.com)

☆ 写真集(flickr.com)

☆ 写真集(wolpy.com)

☆ 写真集  

☆ 写真集



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★La Catedral de León


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2010年02月21日

アンダルシアの「白い村」カサレス&セテニルetc.






☆ 地図と写真(panoramio)



 アンダルシア地方には、プエブロス・ブランコス(Pueblos Blancos、White Villages)と呼ばれる、「白い村」が点在する。

 カディス県やマラガ県の北部を中心に、ネバダ山脈のシエラ・デ・グラサレマ自然公園(Sierra de Grazalema Natural Park)の区域とも重なる、この地域では、有史以前から人が住み、幾つかの洞窟には、洞窟壁画が見られる。

 プエブロス・ブランコスの町々、村々は、白壁と赤もしくは茶の屋根が特徴で、それ自体が歴史的なモニュメントであるとともに、イベリア人、ローマ人、ムーア人から引き継いだ伝統に従って、オリーブの栽培を主体に、人々が生活している。

 アンダルシアの強烈な太陽の日差しの下で、建物に入る熱を少しでも抑えようと、窓を小さくとり、壁を白く塗り、また、家を密集させ、道も細く造られている。日差しが強くなってくる3月に壁が白く塗られる。

 また、色々な文化の影響が残っているが、中でもムーア人が残したものが顕著。狭く、曲がりくねった街の通りが、アラブの雰囲気であるが、それぞれ、カトリック教会が少なくとも1つある。

 プエブロス・ブランコスに数えられる町、村の中でも、有名なのは、カサレス(Casares)、セテニル(Setenil de las Bodegas)、アルコス・デ・ラフロンテーラ(Arcos de la Frontera)、ベヘール・デ・ラ・フロンテーラ(Vejer de la Frontera)、ウブリケ(Ubrique)、グラザレマ(Grazalema)、オルベラ(Olvera)、フリヒリアナ(Frigiliana)、ミハス(Mijas)など。

 ミハスの関連記事は、こちら



◆ カサレス(Casares)

 数多いプエブロス・ブランコスの中でも、代表的なのがカサレス。

 マラガ県にある人口約4千人の小さな村で、岩山に建つ古城と、その下には、スペイン瓦葺きの煉瓦色の屋根と白壁の家々が連なる。その絵はがきのような風景は、日本でもよく知られているスポット。

 コスタ・デル・ソルの海岸まで14kmと近く、ジブラルタル海峡の遙か向こうに、アフリカが見える雄大な景観を持つ。

 ローマ時代、付近のManilvaとの間にあるHediondaの温泉が既に有名で、ジュリアス・シーザー(Gaius Julius Caesar:カエサル、紀元前100-紀元前44年)が肝臓の患いを治し、この硫黄を含んだアルカリ温泉を皇帝の皮膚病治療に勧めて効果があり、その褒美にコインの製造を認められた。

 「カサレス」の地名は、ローマ人のあとに征服したアラブ人が、カエサルに因んで、カサラと呼んだことから。

 野外劇場跡などローマ時代の遺跡や、ムーア人によって建てられた三角屋根の塔を持つ12世紀の古城が、その歴史の名残。

 1485年、ロンダに続いて、キリスト教勢力に征服され、カサレスは、カディス公爵領の一部に。

 ナポレン軍の侵攻の際には、カサレスは、アンダルシアで、カディスとともに、その占領を回避できた希少な歴史を持つ。

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ www.holidaysin360.com

☆ www.fallingrain.com



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◆ セテニル(Setenil de las Bodegas)

 多くのプエブロス・ブランコスが、防衛上、断崖などの高所に造られている中で、セテニルは、丘の上ではなく谷間に造られていることがユニークな存在。

 ロンダの北西、トレホ川(Trejo)沿いに、川に浸食されて崖の下に洞窟が出来、その洞窟を利用して町が造られた。  岩から家が突き出し、岩が家の屋根になり、屋根の上にオリーブ畑があるという珍しい光景。

 遅くとも、1世紀のローマの侵攻時には、人が住んでいたとされ、12世紀のArabic Almohad periodには、町が形成されていた。

 1484年、キリスト教徒によってムーア人が追われた際、町の上にある城は、落とされるのに2週間かかったという。

 15世紀から、キリスト教徒の新たな支配者によって、オリーブ、アーモンド、ブドウなどの農業を発達させた。前二者は、今日でも屋根の上に広がっているが、1860年代にブドウの根に寄生する虫、フィロキセラ・ヴァスタリックスの蔓延により、ワイン生産は消滅。

 セテニルの正式名称、Setenil de las Bodegas の Bodegas は、ワイナリーを意味し、その歴史を留めている。

☆ 写真集 @ A B C D E F 

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ www.andalucia.com

☆ www.world66.com

☆ www.andalucianpics.com



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◆ カサレス(Casares)

YouTube動画 その1
★Casares -Málaga- "Cuna de Blas Infante"


YouTube動画 その2
★Casares


YouTube動画 その3
★Casares (fotos)


YouTube動画 その4
★CASARES




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◆ セテニル(Setenil)
YouTube動画 その1
★SETENIL DE LAS BODEGAS (CÁDIZ)


YouTube動画 その2
★REPORTAJE SETENIL DE LAS BODEGAS


YouTube動画 その3
★SETENIL DE LAS BODEGAS (Cádiz)


YouTube動画 その4
★SETENIL DE LAS BODEGAS


YouTube動画 その5
★Setenil De Las Bodegas


YouTube動画 その6
★SETENIL DE LAS BODEGAS




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◆ アルコス・デ・ラフロンテーラ(Arcos de la Frontera)
YouTube動画 その1
★Arcos de la Frontera, Spain: Queen of Andalucia


YouTube動画 その2
★Arcos de la Frontera


YouTube動画 その3
★Arcos de la frontera




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◆ ベヘール・デ・ラ・フロンテーラ(Vejer de la Frontera)
YouTube動画 その1
★Vejer de la Frontera


YouTube動画 その2
★Vejer de la Frontera - Cádiz - Masfotografias.com


YouTube動画 その3
★VEJER DE LA FRONTERA




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◆ ウブリケ(Ubrique)
YouTube動画 その1
★Ubrique


YouTube動画 その2
★UBRIQUE




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◆ グラザレマ(Grazalema)
★Grazalema




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◆ オルベラ(Olvera)
★Olvera




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◆ フリヒリアナ(Frigiliana)
★Frigiliana y Torrox son de cine




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◆ ミハス(Mijas)
YouTube動画 その1
★Fotos de Mijas Pueblo (parte 1)


YouTube動画 その2
★Fotos de Mijas Pueblo (parte 2)




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2010年01月21日

マヨルカ島&ショパン「雨だれのプレリュード」






☆ 地図と写真(panoramio)



 マヨルカ島(Mallorca)は、地中海の西に浮かぶスペインのバレアレス諸島自治州の中心の島で、島名の Mallorca は、「マジョルカ」「マリョルカ」とも発音される。

 マヨルカ島の面積は沖縄本島の3倍で、島の総人口の過半が、州都パルマ・デ・マヨルカ(Palma de Mallorca)に住み、その人口は約40万人。

 夏の観光シーズンには、観光客や長期滞在者などで、倍以上に膨れ上がる。

 真夏でも35℃まで、真冬は氷点下にはならず、晴天日は年間300日で、湿度は年間を通して約70%。冬の快適さから、多くの欧州サッカーチームが冬期キャンプに利用する。

 歴史は古く、フェニキア人、ギリシア人が拠点を築いたのち、紀元前2世紀にローマの支配下に置かれた。西地中海での交易、軍事の要衝として重要な役割を果たし、「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」の時期に繁栄した。

 4世紀末、ローマ帝国が分裂した後は、一時的に西地中海の覇権をおさえたヴァンダル王国によって支配されるが、6世紀には、東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって、この地が征服された。

 8世紀以降はイスラム勢力の支配下にあったが、1229年、レコンキスタを推し進めたアラゴン連合王国のハイメ1世によって、パルマ・デ・マヨルカが征服され、マヨルカ王国(アラゴン連合王国の一部)が建てられた。

 パルマ・デ・マヨルカは、バルセロナやバレンシア、マグリブ地方、イタリアなどとの交易の拠点として繁栄し、様々な航海・造船技術が開発された。

 15世紀後半、アラゴン連合王国とカスティーリャ王国の合同によりスペイン王国が成立した以降は、スペイン統治下でもパルマ・デ・マヨルカは重要な役割を担った。

 しかし、16世紀には、地中海でオスマン帝国が台頭し、北アフリカのベルベル人の圧力も強まり、また、大航海時代に入ると、貿易の中心が地中海から大西洋に移ったことから、徐々にパルマは活力を失って行った。

 19世紀初頭のナポレオン戦争の際には、ナポレオンによるイベリア半島征服に抵抗する人々の多くが、パルマに逃れた。

 1838年、ショパンが、結核療養の目的でマヨルカに滞在し、この間に「雨だれのプレリュード」が作曲された。しかし、病状は良くならず、半年ほどでパリへと戻った。

   第2次世界大戦後には、フランコ政権の下で観光産業の振興が図られ、観光都市化が進んだ。これにともない、街の人口は倍増した。



見所:

 マリョルカ島には、数多くの美しい砂浜やビーチ・リゾートが点在している。英国やドイツからの観光客が多い。

 ビーチ以外では、北部の海からの断崖絶壁、やその間に点在する村々の絶景、東部のポルト・クリストのドラック洞窟など多数の巨大な鍾乳洞なども見物。

◆ パルマ・デ・マヨルカ(Palma de Mallorca)
 マヨルカ島の西、南側にあるパルマ湾に臨み、バレアレス諸島自治州の州都で、島の人口の過半が集まっている。

☆ 写真集(www.info-mallorca.co.uk)

☆ 写真集(PBase)

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集(flickr.com)

☆ 写真集(wolpy.com)

☆ 写真(panoramio)



  ○ パルマ・デ・マヨルカ大聖堂「ラ・セオ」(Palma de Mallorca Cathedral "La Seu")
 ハイメ1世によって、1230年建築が開始され、1587年に完成。その後、20世紀初めにアントニ・ガウディの設計によって王室礼拝堂が改修された。

 ゴシック様式の大聖堂内部は、天井の中央が高さ44mと壮大。直径11mの巨大でカラフルなバラ窓を含め5つのバラ窓があり、また、中央祭壇の鉄製の天がい飾りは、ガウディがデザインしたもの。

☆ 写真集(two.archiseek.com)

☆ 写真(panoramio)



○ アルムダイナ宮殿(Palacio Real de La Almudaina)
 10世紀のイスラム教徒の城塞を、後のマジョルカ王の宮殿として改修したもので、パティオや庭園には、アラブ式の噴水や水路が設けられている。日本の天皇、皇后のスペイン公式訪問の際の滞在場所として使われた。

☆ 写真集(two.archiseek.com)

☆ 写真(panoramio)



○ ラ・ロンハ(La Lonja、旧商品取引所)
 かつての貿易商人が集まった旧商品取引所で、バレアレス・ゴシック建築の傑作。

☆ 写真集(two.archiseek.com)

☆ 写真(panoramio)



○ ベルベル城(Castell de Bellver)
 市街地から3kmの山の中腹にそびえ、14世紀に建てられた。近代においては牢獄として用いられ、現在は市立博物館になっている。

☆ 写真集(two.archiseek.com)

☆ www.palmademallorca.es

☆ 写真(panoramio)



○ アラビア式浴場跡(Baños árabes)


☆ 写真集(two.archiseek.com)

☆ 写真(panoramio)



○ サン・フランシスコ修道院(Convento de San Francisco)
 サン・フランシスコ広場(Plaza Sant Francesco)に面し、1281年にmゴシック様式で建築され、細い列柱が並ぶ美しい回廊がある。

☆ 写真集(two.archiseek.com)

☆ 写真(panoramio)



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◆ バルデモサ(Valldemossa)  バルデモサは、13世紀頃、マヨルカ王ジャウメ2世が息子のために宮殿を建てたことが起源で、14世紀半ばに王国が滅亡すると、アラゴン王マルティン1世(在位:1396-1410年)によって残された財産はすべて寄付され、1399年に、カルトジオ修道院が創建された。  1838年、「ピアノの詩人」ショパンが結核療養のため、ジョルジュ・サンドとともに、マジョルカ島を半年間訪れた際に滞在したことで知られ、美しい街並みとともに観光客を惹きつけている。

☆ 写真集(PBase)

☆ 写真集(www.info-mallorca.co.uk)

☆ 写真集(flickr.com)

☆ 写真集(wolpy.com)

☆ 写真(panoramio)



○ カルトジオ修道院(Cartuja de Valldemossa)
 マヨルカ王ジャウメ2世(在位:1243-1311年)の時代に創建された修道院で、教会は15世紀の建物が18世紀半ばに建て替えられたが、当初の頃の回廊や薬局残る。

☆ www.mallorcaweb.com

☆ 写真集(two.archiseek.com)

☆ www.cartujadevalldemossa.com

☆ 写真(panoramio)



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◆ ポルト・クリスト(Porto Cristo)
 パルマ・デ・マヨルカから車で約1時間半、パルマとは島の反対側の東海岸にあるリゾート地、集落の南西外れに、ドラック(Drach)の鍾乳洞がある。

☆ 写真集(www.majorca-mallorca.co.uk)

☆ 写真集(www.info-mallorca.co.uk)

☆ 写真集(flickr.com)

☆ 写真集(wolpy.com)

  ○ ドラックの鍾乳洞(Cuevas del Drach)
 島東部にある地底湖を抱く壮麗な鍾乳洞。

☆ 写真集(www.aroundmallorca.com)

☆ 写真(panoramio)



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☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ www.mallorcatour.net 



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2009年12月05日

世界遺産 サンティアゴ・デ・コンポステーラ






☆ 地図と写真(panoramio)



 サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)は、スペイン北西部、ガリシア自治州の州都で、人口約9万人。 

 エルサレム、バチカンと並ぶキリスト教の3大巡礼地の1つとして知られ、バロック様式の荘厳なファサードを持つ大聖堂があり、周辺にはルネサンス、ゴシック、バロック様式が混在した美しい街並みが広がり、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの旧市街」として、1985年に世界遺産に登録されている。

 9世紀に、星に導かれた羊飼いがサンティアゴ・デ・コンポステーラの地で、新約聖書に登場するキリストの12使徒の1人、聖ヤコブのものとされる墓を発見したという。

 やがて、その地に聖堂が建てられ町ができた。町の名は、ラテン語の「Campus stellae」(星の野)あるいは「Compositum」(墓場)に因んでいる。

 聖ヤコブは、パレスティナのガリラヤ湖の漁師であったが、弟のヨハネと共にイエス・キリストに従った。スペインで布教活動を行い、エルサレムに帰還したが、ユダヤのヘロデ王によって断首され、十二使徒のうち最後の殉教者となった。

 発見された当時、イベリア半島においては、キリスト教国によるイベリア半島の奪還を図るレコンキスタ(718〜1492年)が展開されており、イスラム勢力と闘うキリスト教勢力を守護するシンボルとして崇められた。このためスペインの守護聖人とされる(聖ヤコブは、スペイン語で、サンティアゴ(Santiago))。

 11世紀末に、トルコ人の侵入により聖地エルサレムへの巡礼が困難になった頃から、「聖ヤコブの霊廟に詣でればすべての罪が許される」という聖ヤコブ信仰が、イベリア半島だけではなく、ヨーロッパ中に広まった。こうして、エルサレム、バチカンと並んで西方カトリック世界における3大巡礼地の1つに数えられるようになった。

 巡礼路は整備され、巡礼者の数が増えるとともに、道沿いには無料の宿泊所が整備され聖堂や修道院が建てられて行った。無償の奉仕で、巡礼者には食事も用意され、巡礼者は、その証として聖ヤコブのシンボルである帆立貝の殻を荷物にぶら下げる。

 巡礼道にはいくつかのルートがある中で、フランスのヴェズレーを起点とし、ピレネー山脈を越える巡礼路が「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」として、1998年に世界遺産に登録されている。

 スペイン国内に入ると、ナバラ州からカスティーリャ・レオン州の北部を西に横切り、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう約800キロの巡礼路「フランスの道」は、別名「ロマネスク街道」とも呼ばる。他に「アラゴンの道」と「ナバーラの道」がある。

 スペイン国内の巡礼路は、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」として、1993年に世界遺産に登録されている。

 歩けば1ヶ月かかる長い旅を経て、5キロ手前の「歓喜の丘」に立つと、初めて大聖堂の姿が現れる。

見所:

◆ オブラドイロ広場(Plaza del Obradoiro)
 オブラドイロ広場は、多くの教会や修道院があるサンティアゴ旧市街の西側に位置する。

 広場を取り巻いて、東に大聖堂、西に市庁舎、北にパラドール・オスタル・レイス・カトリコス、南にサンティアゴ・デ・コンポステーラ大学がある。 

☆ 写真(panoramio)



○ 大聖堂(Catedral de Santiago de Compostela)
 オブラドイロ広場の東側にある大聖堂は、アルフォンソ6世の時代、1060〜1211年に、初期ロマネスク様式で建築された。

 9世紀の以前の建物は、997年にイスラム(ムーア)軍によって破壊されたが、聖ヤコブの墓は残された。

 16〜18世紀に、外部は荘厳なバロック様式に改装され、西側のファザードが印象的。  内部は、初期ロマネスク様式のままで、長さ94m、身廊の高さ24m、ドームは33mある。ドームに吊るされるボタフメイロ(Botafumeiro)は2m余りあり、8人がかりで引き上げ、振られる。

 聖堂の入口を入ると2百体以上の聖人像を刻んだ栄光の門(Portico de la Gloria)がある。

☆ 写真(panoramio)





☆ 写真集(PBase)

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集(fotosearch.com)

☆ 写真集(trekearth.com)

☆ 写真集(flickr.com)

☆ 写真集(wolpy.com)

☆ www.catedraldesantiago.es

☆ www.galinor.es

☆ www.santiagoturismo.com

☆ www.santiago-compostela.net

☆ www.sacred-destinations.com( +Google map )

☆ www.cyberspain.com

☆ www.spain.info

☆ www.ciudadespatrimonio.org

☆ ユネスコ世界遺産HP1

☆ ユネスコ世界遺産HP2



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★Santiago de Compostela GALICIA


YouTube動画 その2
★Santiago de Compostela


YouTube動画 その3
★Santiago de Compostela


YouTube動画 その4
★Santiago de Compostela, el Final del Camino de Santiago


YouTube動画 その5
★Catedral de Santiago de Compostela


YouTube動画 その6
★Galicia, Terra de Meigas (Santiago de Compostela)


YouTube動画 その7
★Santiago de Compostela, Plaza de Obradoiro, Km 0 del Camino de Santiago


YouTube動画 その8
★The famous Botafumeiro at the Cathedral of Santiago de Compostela (Spain)


YouTube動画 その9
★El Museo do Pobo, Santiago de Compostela


YouTube動画 その10
★Camino de Santiago(サンティアゴの巡礼路)
- Primitivo (April 2007)


YouTube動画 その11
★Santiago de Compostela


YouTube動画 その12
★Santiago de Compostela


YouTube動画 その13
★Compostela.


YouTube動画 その14
★Santiago de Compostela | Turismo en Compostela




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2009年11月30日

絶景 ロンダ  ゴヤとスペイン最古の闘牛場






☆ 地図と写真(panoramio)



 ロンダ(Ronda)は、スペイン南部、アンダルシア州、マラガ県の人口約3万5千人の町。県都のマラガの西北約100kmに位置する。

 ロンダは、標高約750mの三角形の台地にあり、グアダレビン渓谷(Rio Guadalevin)によって街が分断され、険しい断崖の上まで迫って街が形成されている。

 最初、ケルト系人が住んでいたが、その後、ローマ人、イスラム人(ムーア人)が支配したため、建築物は、その影響を受けている。

 街は、南側の古い街ラ・シウダー(La Ciudad)と、北側の新しい街メルカシージョ(Mercadillo)に分れている。

 ラ・シウダーは、古代ローマ時代の集落跡に出来た街で、メルカシージョは、レコンキスタでスペイン領に戻って以降、1485年に、カトリックの修道士達によって造られた。

 グアダレビン川の流れる険しい渓谷には、下方にローマ橋(Puente Romano)とビエホ橋(Puente Viejo、旧橋)、上方にヌエボ橋(Puente Nuevo 、新橋)の3つの橋が架かっている。

 ローマ橋は、イスラム人が支配した頃に造られ、その後、ビエホ橋が、1616年に川からの高さ30mに架けられた。そばにはアラブ浴場跡がある。

 1793年には、新旧の街をつなぐ1番新しいヌエボ橋が架けられ、谷底からは120m。橋の上の展望台からは、スリリングな断崖のパノラマが望める。

 1784年には、現在も使われているものとして、スペイン最古の闘牛場(Plaza de Toros bullring)が、ネオクラッシック様式で造られた。

 18世紀後半に活躍した闘牛士ペドロ・ロメロ( Pedro Romano、1754〜1839年)は、その引退後に、闘牛学校を創立し、多くの闘牛士を輩出した。

 20世紀、米国の作家アーネスト・ヘミングウェイや、映画監督、脚本家、俳優のオーソン・ウェルズが、ロンダに長く住み、この地の美しさを著書で紹介したことから、人気が高まった。

見所:

○ 闘牛場(Plaza de Toros bullring)
 1784年にネオクラッシック様式で造られた闘牛場で、直径66mあり、5千人収容の観客席は2階建てで、136本の柱が並ぶアーケードになっており、現在も使用されている闘牛場としてはスペイン最古のもの。

 18〜19世紀に、ロンダのロメオ家のフランシスコ、ジュアン、ペドロ等によって現在まで続く闘牛のルールが確立された。

☆ www.rmcr.org

☆ 写真(panoramio)



○ 闘牛博物館(Museo de la Real Maestranza de Caballería de Ronda)
 闘牛場の観客席の下に併設されており、画家フランシスコ・デ・ゴヤ(1746〜1828年)が描いた版画集「ラ・タウロマキア(Tauromaquia:闘牛技) 」があり、ゴヤの同時代の名闘牛士たちの、伝説的な名場面の数々が描かれている。

 これに描かれた闘牛士ペドロ・ロメロ(Pedro Romano、1754〜1839年)は、その引退後に、闘牛学校を創立し、多くの闘牛士を輩出した。

 版画、絵画、リソグラフの他に、闘牛士の衣装などが展示されている。

☆ 写真(panoramio)



○ ローマ橋(Puente Romano)
 グアダレビン川に架かる橋で、名前はローマ橋であるが、イスラム人が支配した頃に造られた。

 東側から街に入るかつての門に続き、12mの1つのアーチからなる橋で、そばには13〜14世紀のアラブ浴場跡(Baños Áabes:Moorish bath-house)がある。

☆ 写真(panoramio)



○ ビエホ橋(Puente Viejo、旧橋)
 ビエホ橋は、1616年に架けられ、川からの高さは30m。川の合流点にあり、そばには13〜14世紀のアラブ浴場跡(Baños Áabes:Moorish bath-house)がある。

☆ 写真(panoramio)



○ ヌエボ橋(Puente Nuevo 、新橋)
 新旧の街をつなぐ、1番新しいヌエボ橋は、1793年に谷の最も狭い場所に架けられ、長さ70mで、谷底からは120mある。橋の上の展望台からは、スリリングな断崖のパノラマが望める。

☆ 写真(panoramio)





☆ 写真集(PBase)

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ www.iknow-spain.co.uk

☆ www.andalucia.com

☆ www.rmcr.org

☆ www.travelinginspain.com

☆  www.turismoderonda.es



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★Ronda I


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★RONDA (MALAGA)


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★El sueño de Ronda


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★Ronda


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★Travelling to Ronda - Spain


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★Ronda


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★Ronda




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2009年11月28日

世界遺産「カセレス旧市街」






☆ 地図と写真(panoramio)



 カセレス(Cáceres)は、スペイン中西部に位置し、西はポルトガルに接するエストレマドゥーラ州カセレス県の県都で、人口約9万人。マドリッドの西南西約300km。

 カセレスの町は、紀元前25年、ローマ人によって建設された。3〜4世紀に建設された城壁が残る。

 ローマ人は、スペインの南北を結ぶ石畳の道を造っており、この道で、カンタブリア地方の銀をメリダに運んでいたことから「銀の道」と呼ばる。道沿いには、レオン、サラマンカ、グアダルーペ、トルヒージョ、カセレス、メリダといった歴史的な町が点在している。  その後、西ゴートが占領し、8世紀にイスラムの支配下に入るまで、街は衰退した。

 8世紀以降の数世紀の間は、おおむねイスラムの支配下にあったが、キリスト教勢力が優勢になったことも幾度かあった。

 この間、城壁、宮殿、ブハコの塔(Torre de Bujaco)などの塔を含め、イスラムの支配下で、街は再建された。

 13世紀になると、レコンキスタでキリスト教徒によって奪還された。この時期、ユダヤ人の居住区が出来、人口2千人の町に、140世帯のユダヤ人家族が住んでいた。

 1492年に、ユダヤ人は追放されたが、今日でも(Barrio San Antonio)には、その末裔が多く、この時代の存在は大きかった。

 カセレスは、15〜16世紀、レコンキスタの時代、そして新大陸発見の時代を通じて繁栄し、貴族や富裕層によって邸宅や宮殿が建てられた。また、エストレマドゥーラ地方の多くの人々は、財産を築くためアメリカへの航海に参加した。

 19世紀に、カサレスは州都となり、スペイン内戦が始まるまで成長発展を遂げ、大学や政府機関が設けられた。

 古い城壁に囲まれた旧市街は「カセレスの旧市街」として、1986年、世界遺産に登録された。

 旧市街の一部はコウノトリの巣が多いことでも知られている。

 中世の街並みを、完璧に残しているため、多くの映画がここで撮影されている。

 カセレスには、エストレマドゥーラ大学と2つの天文台がある。

見所:

 カセレスの旧市街は丘の上にある。マヨール広場に面しているエストレーリャ門(星の門)をくぐると、旧市街に入り、ゴシック、ルネッサンス様式を兼ね備た宮殿や館、教会、塔が昔のまま残っている。

 サンタ・マリア広場には、司教館、マジョラルゴの館、エルナンド・デオビエドの館、県の観光振興会が入居しているカルバハルの館(Casa de Carvajal)があり、サン・ホルヘ広場には、サン・フランシコ教会、ベセーラ邸がある。旧市街の中心に位置するトレーオルガスの館は、パラドールに改装されて利用されている。

 また、塔などに、多くのコウノトリの巣が見られるのも独特の風景。

  ○ サンタ・マリア大聖堂(Concatedral de Santa María

 13世紀、レコンキスタ後、初めて建てられた大聖堂。ファサードは13世紀ゴシック様式のもので、塔は15世紀ルネサンス様式のもの。

☆ 写真(panoramio)



○ サン・ファン教会(Iglesia de San Juan Bautista

 旧市街北西の城壁の外のサン・ファン広場に建ち、13世紀にゴシック様式で建築が始められ、幾度も改築され、完成まで5百年の歳月を費やした。

☆ 写真(panoramio)



○ 聖フランシスコ・ハーヴィエ教会(Iglesia de S.Francisco Javier

 サン・ホルヘ広場に面して建ち、1698〜1755年にバロック様式で建築された。ファザード両側に建つ2つの塔が印象的。

☆ 写真(panoramio)



○ サン・パブロ教会と修道院(Iglesia y Convento de San Pablo

 15世紀の教会と修道院。

☆ 写真(panoramio)



○ カンパニア修道院(Convento de la Compañía de Jesus

 18世紀にバロック様式で建築され、建物の内側には、回廊のあるパティオがある。現在は文化施設として利用されている。

☆ 写真(panoramio)



○ 城壁

  星の門や、12世紀のブハコの塔(Torre de Bujaco)ほか、多数の塔がある。

☆ 写真(panoramio)



○ ゴルフィネス家の館(Palacio de los Golfines de Abajo
 街で最も華麗な館で、カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン国王フェルナンド2世のカトリック両王がこの地を訪れたとき宿泊した。

☆ 写真(panoramio)



○ トレーオルガスの館(Palacio-Fortaleza de los Torreorgaz)
 14世紀の塔を持つ宮殿で、現在はパラドールに使われている。

☆ 写真(panoramio)





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2009年11月23日

世界遺産「アルハンブラ宮殿」 @ グラナダ






☆ 地図と写真(panoramio)



 アルハンブラ宮殿(La Alhambra)は、スペイン南部アンダルシア地方、シエラ・ネバダ山脈(Sierra Nevada)の北側山麓、グラナダ(Granada)旧市街の東の丘(al-Sabika)にある。

 グラナダで最も古い歴史を持つアルバイシン地区(Albaycín)をダーロ川(Dauro)向こうに見下ろすように建っている。

 「アルハンブラ」は、アラビア語で「赤い城」を意味し、宮殿や城壁に使われた土に含まれる鉄分によって赤みを帯びており、特に、夕日を浴びて真っ赤に染まったことが、その名の由来となっている。

 10世紀、古代ローマの植民市イリベリスの跡に街が造られ、8世紀以降は、コルドバを首都とする後ウマイヤ朝の下にあった。

 11世紀初頭には、後ウマイヤ朝が衰えて、イベリア半島に小国が分立し、そのタイファ諸国の1つとしてズィール朝グラナダ王国が成立し、その首都となった。

 しかし、11世紀末にはムラービト朝に、12世紀にムワッヒド朝に征服された。

 1232年、グラナダ王国が、ナスル朝ムハンマド1世(在位:1232 - 73年)によって建国され、カスティーリャ王国などキリスト勢力のレコンキスタに追われ、イベリア半島におけるイスラム勢力最後の牙城となった。

 1234年、ムハンマド1世は、丘の上に要塞を建設させた。日夜を問わず建設が続けられた要塞は、赤土で出来た城という意味で、地元民から“al-kalat al-hamrá”と呼ばれた。

 そして、1237年に、ムハンマド1世は、この地をグラナダ王国の首都として正式に定めた。

 その後、ナスル朝7代目サルタンのユースフ1世(在位:1333 - 54年)と次代のムハンマド5世(在位:1354 - 91年)の時代には、13世紀から造営されていた宮殿の大規模な改修が行われ、現在まで残るコレマス宮などが次々と建築された。

 ムハンマド5世の治世下の14世紀後半は、イタリアのジェノヴァ商人などとの交易により経済的繁栄を収め、最盛期を迎えていた。

 1492年、フェルナンドとイサベル両王が率いるキリスト教徒軍はグラナダを包囲し、ムハンマド12世(在位:1482 - 92年)を最期に、アルハンブラは無血開城し、グラナダ王国は滅亡した。

 16世紀、後に神聖ローマ皇帝カール5世(在位:1519 - 56年)として即位したスペイン王カルロス1世(在位:1516 - 56年)は、グラナダ奪還後のキリスト教勢力の威信を示すため、アルハンブラに新たな宮殿の建設を命じ、現在の「カルロス5世宮殿」(Palacio de Carlos V)となった。

 18世紀以降、アルハンブラ宮殿は財政難などから放置され、廃墟になっていた。

 19世紀初頭、米国の作家ワシントン・アーヴィングが、4年間のスペイン滞在中、かつてのカルロス1世の部屋に滞在して執筆し、1832年に『アルハンブラ物語』を出版した。

 これを契機に、アルハンブラ宮殿が見直され、修復作業が始められた。

見所:

 アルハンブラ宮殿は、王宮、カルロス5世宮殿、アルカサバ、ヘラネリフェの4つの部分からなっている。

◆ 王宮(Palacio de la Alhambra)

 メスアール宮、コマレス宮、ライオン宮などからなる。

○ メスアール宮(Palacio de Mexuar)
 裁判所や会議場として使われたアルハンブラの中で最古の部分であるが、グラナダを征服したキリスト教徒によって改修された。 

 メスアールの中庭(Patio del Mexuar)に面した壁面が、アルハンブラ宮殿の中で、最も美しいファザードと言われている。

☆ 写真(panoramio)



○ コマレス宮(Palacio de Comares)
 1370年に、ムハンマド5世によって建築が始められ、15世紀に完成した。コマレス塔(Torre de Comares)には豪華に装飾された天井のある「大使の間」(Sala de los Embajadores)は、グラナダ王国の政治の中心となった。

☆ 写真(panoramio)



○ アラヤネスの中庭(Patio de los Arrayanes)
 メスアールの中庭を抜けたところにある中庭で、中央には縦37m、幅23mの長方形の池があり、鏡のような池には、回廊のあるコマレス宮が美しく映し出される。

☆ 写真(panoramio)



○ ライオン宮(Palacio de los Leones)
 1377年に、ムハンマド5世によって建築が始められた冬の離宮で、アラヤネスの中庭の南東から、(Sala de los Mozárabes)を抜けたところにある。

 クモの巣をイメージした天井が特徴の「アベンセラヘスの間」(Sala de los Abencerrajes)や、中庭を挟んで反対の北側には、蜂の巣が広がったような天井と鍾乳石の装飾がスタッコとタイルで施された8角形の「二姉妹の間」(Sala de las Dos Hermanas)が見所。

☆ 写真(panoramio)



○ ライオンの中庭(Patio de los Leones)
 ライオン宮殿の中庭で、長さ28m、幅16mの中庭の中心には「ライオンの噴水」(Fuente de los Leones)がある。

 水盤が大理石の12頭のライオンに支えられ、かつては、毎時間1頭の獅子が水を噴く仕掛けの水時計となっていた。周囲は124本の大理石の柱が並ぶ回廊になっている。

☆ 写真(panoramio)





◆ アルカサバ(Alcazaba)

 グラナダがイスラム勢力の支配下に入る以前の9世紀には、既に古い砦があった場所で、現在の要塞アルカサバは、1234年からムハンマド1世によって建設が始められ、アルハンブラの中では最も最初に造られた部分。

 城壁が築かれ、3つの塔(Gorge、Tribute、Vela)が建てられ、宮殿が完成するムハンマド2世の頃まで、居城となった。

 レコンキスタ後は、要塞の改修が行われ、後には国の監獄となり、フランス軍に占領されたこともあった。

http://www.alhambradegranada.org/historia/alhambraTVela.asp ○ ベラの塔(Torre de la Vela)
 塔に登ると、シエラ・ネバダグラナダの山々街を一望することができる。

☆ 写真(panoramio)





◆ カルロス5世宮殿(Palacio de Carlos V)

 キリスト教勢力がグラナダを奪還して、カルロス5世によってルネサンス様式で建てられ、スペイン・ルネッサンスを代表する建築物とされる。現在は、アルハンブラ博物館として利用されている。

 また、サンタ・マリア・アルハンブラ教会が隣接している。

☆ 写真(panoramio)





◆ ヘネラリフェ庭園(Generalife)

 アラビア語で「天の楽園」という意味の水の庭園ヘネラリーフェは、王の避暑のための離宮として使われ、ヘネラリーフェからはアルハンブラ宮殿が一望できる。

 13〜14世紀にこの地を支配したイスラムの首長の別荘として造られ、敷地の高低差を生かして多くの噴水が設けられ、花や木々がふんだんに植えられている。

○ アセキアの中庭(Patio de la Acequia)
 「水路」を意味するアセキアが、中庭の中央に延び、両側に噴水と植物が配されている。

☆ 写真(panoramio)





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2009年11月18日

世界遺産「歴史的城壁都市クエンカ」&「宙吊りの家」




☆ 地図と写真(panoramio)



 クエンカ(Cuenca)は、スペイン中央部、カスティーリャ・ラ・マンチャ州、クエンカ県の県都で、人口は約5万人。

 クエンカは、石灰岩が侵食され、フカール川とウエカル川に挟まれた台地にあり、「鷲の巣」として知られる。

 その名は、「川の盆地」を意味するラテン語の「conca」から来ているとも、廃墟となったアラブ人の城「クンカ(Kunka)」から来ているともされる。

 8世紀以降のレコンキスタの歴史の中で、崖の上に築かれた要塞都市クエンカは、難攻不落のイスラムの砦があった。

 羊を飼っていたイスラム軍は、キリスト教徒軍の兵糧責めにあっても困ることなく過ごしていたが、昼は外で放牧し、夜になると城壁の中へ入れることに気づいた、カスティーリャ王アルフォンソは、羊の皮を被った兵士を群れの中に紛れさせ、難攻不落の砦を陥落させたと伝えられている。

 15〜16世紀、織物産業の発達による人口増加に対処するため、崖の上の限られた土地では、建物は上に伸ばすしかなく、クエンカの特異な景観が形成されていった。

 ウエカル川の断崖の上に建てられている「宙吊りの家」(casas colgantes、casas colgadas)が有名。

 町のカテドラルは、ネオ・ゴシック様式のファサードが美しい。復活祭前の一週間は、セマーナ・サンタ(semana santa、聖週間)の行事として、異端審問で投獄された囚人の装束で、みこしをかついで町を練り歩き、キリストの受難が再現される。

 この他、スペイン抽象美術館がある。

 クエンカは、自然と建築物が特異な景観をつくっており、「歴史的城壁都市クエンカ」として、1996年、世界遺産に登録された。



☆ 写真集

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2009年11月08日

プラド美術館 世界3大美術館




☆ 地図と写真(panoramio)



 プラド美術館 (Museo del Prado) は、スペインのマドリッドにある、世界でも有数の規模と内容をもつ美術館で、いわゆる世界3大美術館の1つ。

 スペイン王室のコレクションをもとに、12〜19世紀のヨーロッパ美術に関して、世界で最も優れたコレクションとして知られ、5000点のデッサン、2000点の版画、700点の彫刻をはじめ、1000点のコインとメダルなどを所蔵する。

 展示されている絵画は、約1300点で、スペインの3大巨匠ゴヤ、エルグレコ、ベラスケスの多くの傑作や、エルグレコ、ムリリョ、リベーラ、さらに、1800年以前に活躍したオールド・マスターに入るスペインの画家達の作品が揃う、スペインが世界に誇る美術館である。

 また、スペイン絵画のほかに、フェリペ2世(在位:1556〜98年)のお気に入りのヒエロニムス・ボスや、ルーベンス、ラファエロの多くの作品群が所蔵され、ボッティチェリ、カラヴァッジオ、レンブラント等、フランドル、イタリアなどの外国絵画も充実している。

 16〜17世紀、フランドルは、ブルゴーニュ公爵領として、スペイン王室の領土であったことから、スペイン王室のコレクションにフランドル絵画が多数加えられ、ルーベンスが、ハプスブルグ家のフランドル総督に仕えたことも背景に。

 最も有名なものとしては、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス(宮廷の侍女たち)(1656年)』がある。ベラスケスは、自分の作品を残しただけでなく、イタリアのマスター達の作品のコレクションを、スペインに持ち込む際の目利きの役割を果たした。

 プラド美術館の建物は、カルロス3世(在位:1759〜88年)の治世下、マドリッドを記念碑的都市にすべく、壮大な建築物の1つとして建設された。プラド"prado"は、牧草地、草地を意味し、当時の様子を物語る。

 工事は、カルロス3世の治世以降、イベリア半島で、スペイン、ポルトガル、イギリスとが共にフランス帝国軍に対して戦った半島戦争(1808〜14)で中断、カルロス3世の孫、フェルナンド7世(在位:1808年、1813〜33年)の治世になって再開された。

 1819年に、「王立美術館」として開館し、1868年の革命後、国営化され「プラド美術館」に。

〇 主な収蔵品
 
ベラスケス
女官たち(ラス・メニーナス) 同詳細』(1656)
薔薇色のドレスのマルガリータ王女』(1660)
ブレダの開城』(1634−35)
ゴヤ
着衣のマハ』(1797−1803)
裸のマハ』(1797−1800)
1808年5月3日』(1814)
ボス
快楽の園』(1503−04)
デューラー
自画像』(1498)
レンブラント
三美神』(1639) 
エル・グレコ受胎告知』(1595-1600) ほか多数
ムリーリョ無原罪のお宿り』(1678頃) ほか多数





☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集(建物)@ A B C D E F G 

☆ www.museodelprado.es

☆ http://www.museodelprado.es



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★Museo del Prado


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★Museo del Prado


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★MUSEO DEL PRADO UNA PEQUEÑA MUESTA ESPAÑA


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★Goya en tiempos de guerra. Museo del Prado.Madrid.


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★MADRID MUSEO DEL PRADO LA PUERTA DEL SOL


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★El Museo del Prado




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2009年10月24日

世界遺産「古都トレド」 中世のテーマパーク




☆ 地図と写真(panoramio)

 トレド(Toledo)はスペイン中央部、カスティーリャ・ラ・マンチャ州の州都、トレド県の県都で人口は約8万人。

 マドリードから南に約70km、南北1.3キロ、東西1.5キロ、三方をタホ川(Tajo)に囲まれた岩山の上にそびえ立つ天然の要塞都市で、絹・毛織物工業、陶業が伝統産業で、古来、刀剣製造でも知られる。

 先史時代から人が住んでおり、古代ローマの領地を経て、西ゴート王国がイベリア半島を支配し、やがて560年にアタナヒルド王によって首都とされた。

 その後、8世紀にイスラムの支配下に入ったが、後ウマイヤ朝が崩壊すると、トレド王国の領地となった。

 1085年には、カスティーリャ王国による長期の包囲の後、トレドは降伏し、カスティーリャ王アルフォンソ6世(在位:1065 - 1109年)がトレドに入城して、カスティーリャ王国の首都となった。

 その後も、モロッコからイベリア半島南部のアンダルシアを支配したイスラム王朝であったムラービト朝の攻撃から、カスティーリャ王国はトレドを守り抜いたため、1085年のトレド征服はレコンキスタの重要な一里塚となった。

 16世紀に都がマドリードに移るまでの間、支配者がめまぐるしく変わりながらも、この都は中世ヨーロッパ随一の栄華を誇り、政治・経済・文化の中心であった。

 1227年、フェルナンド3世(在位:1217 - 52年)の時代に、トレド大聖堂(Catedral de Toledo)の建築が始められ、1493年に完成した。

 しかし、1561年、フェリペ2世(在位:1556 - 98年)が、トレドからマドリードに宮廷を移し、マドリードが首都となったため、以後トレドは徐々に衰退して行った。

 トレドは、古代ローマ、西ゴート王国、ムスリムと戦ったキリスト教国の要塞、また、スペイン黄金時代などと、2千年以上の歴史を誇り、「歴史の博物館」と言われる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3つの宗教、それぞれの異質な文明が一緒になって生み出されたムデハル建築は、この博物館の最高傑作であると言える。

 また、16世紀〜17世紀初頭、クレタ島出身の画家エル・グレコが、トレドに住み着き、活躍した町としても有名で、エル・グレコの家と美術館には、彼のアトリエが再現され、『トレドの景観と地図』などの作品が展示されている。

 アーチ型の石橋、迷路のように入り組んだ石畳の路地、そしてレンガ造りの家並みにそびえ建つアルカサルや、荘厳な大聖堂、タホ川に囲まれた旧市街は「古都トレド」として、世界遺産に登録されている。

見所:

○ トレド大聖堂(Catedral de Toledo
 アユンタミエント広場の東側にあり、かつての西ゴートの教会、イスラム時代のモスク跡に、1227年、フェルナンド3世時代に建築が始められ、1493年に完成した。

 スペイン・カトリックの総本山で、スペインのゴシック様式の教会としてはブルゴス大聖堂に次ぐ教会建築とされている。

 高さ90mの北塔は、1380〜1493年に建てられ、重さ17トンのゴルダの鐘(Campana Gorda)は、1753年に鋳造された。 バロック様式のドームを持つ南塔は未完のままである。

 西側のファザードには、1418〜50年に造られた3つの入り口があり、ふんだんな彫刻とレリーフで装飾されている。

 内部は、奥行き長さ110mあり、祭壇に彩色彫刻が施された中央礼拝堂(Capilla Mayor)を囲むように、22の礼拝堂が並んでおり、15〜16世紀のステンドグラスがある。

 中央礼拝堂の後には、「トランスパレンテ」と呼ばれる大理石のバロック様式の天使の彫刻群があり、外から差し込む光にが、躍動感を与えている。

 聖具室(Sacristia)の大天井には、ルーカ・ジョルダノによって描かれたフレスコ画があり、隣接の部屋とともに、絵画館になっており、エル・グレコの『聖衣剥奪』や『十二使徒』を始め、ゴヤ、ヴァン・ダイク、ルーベンス等の作品がある。

☆ 写真(panoramio)



○ アユンタミエント広場(Plaza del Ayuntamiento)
 東に大聖堂、北西に大司教宮殿(Palacio Arzobispal)がある。南西には、2つの塔を持つ1618年建築の市庁舎(Ayuntamiento)が建っている。

☆ 写真(panoramio)



○ アルカサル(Alcazar de Toledo
 旧市街のある丘の東の斜面に、古代ローマの支配した時代の宮殿跡に、12世紀のアルフォンソ6世や、13世紀のアルフォンソ10世の時代に造られ、16世紀に、カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)によって大改築が行われ、4隅に四角い塔を持つ長方型の今日の姿になった。

 1810年に、フランス軍によって焼き討ちされ、直ぐに再建され、軍学校として使われた。スペイン内戦の際、2か月間ここに篭城したフランコ軍の守備隊に対して、共和国軍によってアルカサル攻囲戦が行われた。現在、内部は市民戦争博物館になっている。

☆ 写真(panoramio)



○ サンタ・クルス美術館(Museo de Santa Cruz
 16世紀に、イサベル1世が慈善病院(Hospital de Santa Cruz)として建設させたルネサンス様式の建物に入っている。  「グレコの部屋」に展示されている「聖母受胎」「聖母昇天」を始めとする絵画のほか、15〜16世紀のフランドルのタペストリーのコレクションなどを所蔵する。

☆ 写真集

☆ 写真(panoramio)



○ アルカンタラ橋(Puente de Alcantara
 サンタ・クルスの下の東方向のタホ川に架かる橋で、古代ローマ時代に起源を持ち、866年にイスラム人によって架け替えられ、13〜14世紀に、今日の姿になった。

 西側端に、1484年に造られた門塔(Puerta de Alcántara)があり、東側には1721年のバロック様式の門塔がある。橋からは、街とアルカサルの素晴らしい眺めが楽しめる。

☆ 写真(panoramio)



○ サン・セルバンド城(Castillo de San Servando)
 アルカンタラ橋から下流に、1933年の新橋、ヌエボ橋(Puente Nuevo)とローマ水道橋の遺跡が見え、その左岸の高い崖の上に、11世紀に築かれたサン・セルバンド城がある。

☆ 写真(panoramio)



○ ビエハ・デ・ビサグラ門(Puerta Vieja de Bisagra
 サンチャゴ教会近くの城壁にある9世紀のアーチ門で、塔を持つ。1085年、アルフォンソ6世が、トレドを制圧した際には、この門を通って入城したと言われている。

☆ 写真集(panoramio)



○ サン・フアン・デ・ロス・レイェス修道院(Monasterio de San Juan de los Reyes
 15世紀末、「トロの戦い」の勝利を記念して、カトリック両王の命で建てられ、ゴシックとムデハル様式が混合したイサベル様式の典型的な建物で、後期ゴシック様式の回廊がある。

☆ 写真(panoramio)



○ サント・トメ教会(Iglesia de Santo Tome
 14世紀に、モスクを改装したムデハル様式の教会で、エル・グレコの代表作『オルガス伯の埋葬』を所蔵している。

☆ 写真(panoramio)



○ グレコの家(Casa de El Greco
 クレタ島出身のグレコは、35歳の頃、トレドに住み着き、創作活動を続けた。  当時の家具、調度品を置いて再現しており、「キリストと12使徒」「聖ベルナルド・デ・シエナ」「トレド景観」等のグレコの作品のほか、16〜17世紀のスペイン画家の作品が展示されている。

☆ 写真(panoramio)





☆ 写真集

☆ 写真集(PBase)

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★TOLEDO SPAIN


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★Toledo, Spain: El Greco


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2009年07月01日

絶景 モンセラート カタルーニャの聖地




☆ 地図と写真(panoramio)

 モンセラート(Montserrat)は、スペイン東部、カタルーニャ州、バルセロナの北西約45kmにあり、約10kmに渡って続く山地で、のこぎりの歯のように峰が並ぶ特異な景観で知られる。

 バルセロナからカタルーニャ公営鉄道でマルトレル(Martorell)へ、ここから、モンセラート・ラック鉄道に乗り換えて修道院のあるモニストル(Monistrol)まで行き、さらにケーブルカーを利用して行く。

 最も高いピークは、サン・ジェロニモ(San Jerónimo、Sant Jeroni)で、標高1,241mある。

 この山地の南東、険しいマロ渓谷(Valle Malo、Vall Malalt)の切り立った標高約725mの崖に、アーサー王の聖杯伝説に登場するベネディクト会のサンタ・マリア・モンセラート修道院付属のバリシカ聖堂(Monasterio de Montserrat)がある。

 伝説では、50年頃に聖ルカによって彫られた聖母像がスペインにもたらされ、その後、イベリア半島を支配したイスラム人から逃れ、聖なる洞窟サンタ・コバ(Santa Cova)に隠された。

 880年に、聖母像が発見され、これに捧げて4つの礼拝堂が建てられ、その1つは修道院の庭に残っている。

 1025年に、カタルーニャ北部のリポイ (Ripoll)にあったサンタ・マリア・デ・リポイ修道院から来た修道士オリヴァ(Oliva)が、礼拝堂の隣りに修道院を創設した。

 やがて、様々な奇跡が起こり、黒い聖母像が知れ渡ることとなり、教皇を始め多くの聖人も訪れるようになった。

 1409年、教皇ベネディクト13世によって独立した修道院として認められ、同世紀末には、スペインで最初の印刷機が導入された。

 1522年、後にイエズス会を創始したイグナチウス・ロヨラが、この修道院に滞在した。

 多くの巡礼者が訪れるようになり、修道院も拡大され、1592年には、バシリカ聖堂が献堂された。

 ナポレオン戦争で、修道院の財産は持ち去られ、1811年にフランス軍によって破壊された。

 さらに、1835〜60年の間、スペインの王位継承をめぐるカルリスタ戦争(Guerras Carlistas)によって閉鎖されている間にも荒廃が続いた。

 その後、19〜20世紀に、聖堂の建物が改築された。

 15世紀に創立されたエスコラニア少年合唱団の歌声でも知られる。

見所:

○ バシリカ聖堂(Basílica)
 16世紀に建築されて以降、改築が重ねられ、19、20世紀にも改築され、身廊は、長さ68m、幅21m、高さ33m、ファザードはルネサンス様式になっている。

 身廊への正面入り口のほか、聖母像に直接行くための入り口が設けられている。

 聖母像は、12〜13世紀の彩色された木像で、顔や手は年月を経て黒くなっているため、la Moreneta と呼ばれる。

☆ 写真集(panoramio)



  ○ モンセラート美術館(Museo de Montserrat
 ピカソ、ミロ、ダリ、シャガール、タピエスなどの絵画、エジプトの美術品等を所蔵、展示している。

○ 十字架の道(Via Crucis)
 修道士オリヴァに因んで建てられた十字架へと続く道で、14の像が1904〜19年に設置され、スペイン内乱後に修復された。



☆ 写真集(PBase)

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2009年06月29日

ミハス アンダルシアの「白い村」




☆ 地図と写真(panoramio)

 ミハス(Mijas)は、スペイン南部、アンダルシア州、マラガ県にあるコスタ・デル・ソル地方の中心的な町で、人口約7千5百人。

 海岸から8kmほど入った山の中腹、標高450mにあるミハス・プエブロ(Mijas Pueblo)は、アンダルシアの典型的な「白い村」として有名。

 商業・住宅地からなるミハス・コスタ(Mijas Costa)地区、郊外のラス・ラグーナス(Las Lagunas)地区、こぢんまりしたリゾート地のラ・カラ・デ・ミハス(La Cala de Mijas)地区がある。

 歴史は古く、紀元前800年頃、フェニキア人が、この地に現れるようになった。

 紀元前2世紀以降から、古代ローマ帝国の影響が強くなり、考古学的調査から、ローマ都市 Suel の存在が確認されている。

 713年、ダマスカスのカリフの支配下、イスラム人とベルベル人からなる軍が、南西115kmのアルヘシラス(Algeciras)に上陸し、やがて、イベリア半島のほとんどを占領した。

 言葉や文化がイスラムに同化し、キリスト教やユダヤ教にもある程度寛容的であったものの、宗教はイスラム教に統一されて行った。

 1487年、レコンキスタの最終時期、スペイン王国に征服された。キリスト教勢力が、北東30kmのマラガ(Malaga)を奪還すると、キリスト教の王の下へ集まるミハスの住民も多かったが、その過程で抵抗した住民は奴隷となった。自由と財産の保持を許されたのは少数の家族に限られた。

 1841年、海岸部のフエンヒローラ(Fuengirola)が、ミハスから分離して単独の自治体となった。

 19世紀を通じて、農業と畜産、製紙業が主産業であった。

 1960〜70年代に、コスタ・デル・ソルの観光が確立して行き、滞在型の観光で建築ブームが起こった。年間数百万人が訪れるスペインでも有数の観光地になっている。

見所:

 小さな窓のある白壁の家々が立ち並び、喫茶店やレストラン、みやげ物店などになっており、ロバ・タクシーが行き交う。 ○ ラ・ペーニャ聖母礼拝堂(Santuario de la Virgen de la Pena)
 1586年に、聖母が出現したとされる場所で、ミハスの守護聖人となっている。岩塊をくり抜いて造られた洞窟礼拝堂は、聖母に捧げられた。

 後に、近くの塔の奥まった場所から、500年間隠されていた聖母像が発見された。

☆ 写真集(panoramio)



  ○ カルバリオ聖堂(Shrine of the Calvario)
 村の上の丘の高い位置にあり、村の曲がりくねった小道を登って行ったところにある。1710年に造られた。内部は、イースターの金曜日のみに公開されるが、ここから素晴らしい展望が楽しめる。

☆ 写真(panoramio)



  ○ サン・セバスチャン教会(Church of San Sebastian)
 ミハスの最も美しい通りのサン・セバスチャン通りにある教会で、1674年に再建され、ファザードが美しい。

☆ 写真集(panoramio)



 

☆ 写真集(PBase)

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2009年04月19日

「白い街」カダケス &「ダリの家美術館」@ポート・リガト




☆ 地図と写真(panoramio)

 カダケス(Cadaques)は、スペイン東北端、カタルーニャ州(Catalonia)、ジローナ県(Girona)にある町で、人口約2千6百人。

 カダケスは、コスタ・ブラヴァ海岸のクレウス岬(Cap de Creus)から入り込んだ湾の奥に位置する白い家々が建ち並ぶ美しいリゾートとして知られる。

 カケダスは、丘の上にある城壁に囲まれ、石畳の曲がりくねった急な坂道の多い小さな村であったが、17世紀には、城壁の外から港まで拡大して行った。

 17〜19世紀には、サンタ・マリア教会(Santa Maria)が建築され、町のランドマークとして、そびえている。

 周囲は、教会の治める町であったが、この村はアンプリアス伯爵(Empúries)の支配下、自治を獲得、維持していた。

 カケダス周辺は、ごつごつした岩が多く、カタルーニャの他の地域からのアクセスが悪く、隔絶されていたため、カケダスの人々は漁業を生活の糧としていた。

 また、彼等が海外から得た富で、美しい建築物が造られ、美術品が集められた。

 20世紀初頭に、ドイツ人の画家マックス・エルンスト(Max Ernst)、フランスの詩人ポール・エリュアール(Paul Eluard)、同じくアンドレ・ブルトン(André Breton)、そして、サルバドール・ダリ(Salvador Dalí)、ピカソ等の多くの芸術家を惹きつけ、リゾートとして有名になった。

 ダリは、子供の頃からカダケスで夏を過ごしに連れられて来ており、1929年の夏には、詩人ポール・エリュアールが家族とともにダリを訪ね、その妻ガラと知り合い、3年後にはダリはガラと結婚した。

 1948年、第2次世界大戦で避難していた米国から帰国し、カケダスの近くのポート・リガト(Port Lligat)の漁民の家を購入して、ここで作品の制作を始めた。

 この家は、アトリエや書斎、居間、寝室などからなり、ダリが40年間に様々な改変を加えており、現在は、ダリの家美術館 (Casa-Museo Salvador Dali de Port Lligat)となっており、予約により見学可能。

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2009年04月18日

フィゲラス  ダリ劇場美術館




☆ 地図と写真(panoramio)

 フィゲラス(Figueres)は、スペイン東北端、カタルーニャ州(Catalonia)、ジローナ県(Girona)にある都市で、人口約4万人。バルセロナの北東約140kmに位置する。

 フィゲラスは、ピレネー山脈の東端と、コスタ・ブラヴァ海岸(Costa Brava)との間にあり、街を見下ろす丘の上には、サン・フェラン要塞(Castell de Sant Ferran)がある。

 旧市街の周りは、中世に造られた城壁や、ネオ・クラシック様式に変えられたアジュンタミエント広場(Plaza del Ayuntamiento)などが残っている。

 また、シュルレアリスムの代表的な芸術家サルバドール・ダリ(Salvador Dalí)の生誕地として有名で、彼がデザインしたダリ劇場美術館(Teatro-Museo Dali)がある。

 古代ローマ帝国が支配下に収め、ドミティア街道(Via Dometia)、アウグスタ街道(Via Augusta)が敷かれると、(Juncària)や(Figàries)の町が築かれたが、フランク族、西ゴート族、イスラム人などによって破壊された。

 943年、サン・ピエールの丘に、ベサル男爵領(Besalú)の新たな町として、フィゲラスが建設された。

   1267年、アンプリアス伯(Empuries)から、アラゴン王ハイメ1世(在位:1231−76年)の支配に移り、町は王領となり特権を与えられ、街の周囲に城壁が築かれ、次第に、この地方の首府として発展して行った。

 14世紀、アラゴン王ペドロ4世(在位:1336−87年)によって、街は拡大され、サン・ピエール教会(Sant Pere)が、ゴシック様式で建て替えられた。

 1419年には、市を開くことを許され、商業の発展に拍車がかけられ、城壁の外にも、街が拡大した。

 1635〜59年のフランスとの西仏戦争の結果、締結されたピレネー条約で、フランスはルシヨンを手に入れ、スペインとの国境がピレネー山脈に固定された。

 北カタルーニャ地方が、フランス領となったことから、国境近くのフィゲラスには、サン・フェラン要塞(Castell de Sant Ferran)が、1753〜66年に建設され、ヨーロッパで2番目に大きな城塞として知られた。

 1904年、ダリが、裕福な公証人の息子として生まれた。母親も富裕な商家出身だった。少年時代から絵画に興味を持ち、ピカソの友人でもあった画家ラモン・ピショットから才能を認められた。

 1974年、ネオ・クラシック様式の古い市民劇場を改修したダリ劇場美術館が、開館した。ダリは、1989年、美術館に隣接するガラテアの塔で、心不全により85歳の生涯を閉じた。

見所:

○ ダリ劇場美術館(Teatro-Museo Dali)
 1850年のネオ・クラシック様式の古い市民劇場を、1974年に改修して、美術館として設立され、建物全体がダリの雰囲気を伝える。マドリッドのプラド美術館に次ぐ来訪者がある。

 元の劇場の階層ごとにレイアウトされ、屋根はパースペクスと言われる風防ガラスが張られている。窓やコーニスには、プラスチック製の置物が据えられている。

 1989年に亡くなるまで、ダリが残した1万点を超える作品の大部分が、収蔵、展示されている。

 また、ダリがデザインしたジュエリーを展示する美術館が、併設されている。

☆ 写真集(panoramio)



  ○ サン・ピエール教会(Sant Pere)
 元のロマネスク様式の教会が、14世紀に、ゴシック様式で建て替えられた。翼廊と後陣は、18世紀に完成した。

☆ 写真(panoramio)



○ サン・フェラン要塞Castell de Sant Ferran
 17〜18世紀初頭にかけて相次いだフランス軍の侵入を防ぐため、1753〜66年に建設された。

 ヨーロッパで2番目に大きな城塞で、6千人の軍隊と500頭の馬が収容出来る規模を誇ったが、その後、戦争に巻き込まれることはなかった。

☆ 写真集(panoramio)



○ アンプルダン博物館(Museo del Ampurdan)
 街のメインストリートにあり、1階は地域の現代絵画のコレクションが展示され、2階はガラス器、銅の装飾品など、アンプルダン地方の発掘品等が展示されている。



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★FIGUERES


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★Teatro Museu Dali: Figueres, Spain


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★Dali Museum - Figueres, Spain


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★Teatre Museu Dali - Figueres, Spain


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★Dali museum figueres


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★Dali Museum Figueras




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2008年03月20日

グアダルーペ 世界遺産の王立修道院







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 グアダルーペ(Guadalupe)は、スペインのエストレマドゥ ーラ州(Extremadura)、カセレス県の東部にある人口約2千人の町。

 ここに、1993年登録の世界遺産「サンタ・マリア・デ・グアダルーペ王立修道院」(Real Monasterio de Nuestra Senora de Guadalupe)がある。

 13世紀末のこと、カセレスの羊飼いヒル・コルデロ(Gil Cordero)が、グアダルーペ川の川岸で、聖母像を偶然発見したが、それは、714年にムーア人が攻め寄せた際に、隠されものであった。そして、この発見場所に、礼拝堂が建てられることに。

 カスティーリャ王アルフォンソ11世は、一度ならず、この礼拝堂を訪れ、「グアダルーペの聖母マリア」に戦勝を祈願した。

 戦いに勝利すると、聖母マリアの神へのとりなしのおかげだとして、グアダルーペの教会を、王家の聖地とし、大がかりな再建が開始された。

 1389年、聖アウグスチノ修道会の修道士達が、これを引き継ぎ、建設が継続され、その後1474年には、カスティーリャ王エンリケ4世が埋葬されている。

 この修道院は、同じく「グアダルーペの聖母」への信仰が篤いメキシコのグアダルーペ大聖堂など、新世界との関係が深く、1492年にアメリカ大陸を発見したクリストファー・コロンブスが、その発見を神に感謝する最初の巡礼地となった。

 グアダルーペ出身の修道士達によって、マドリード近郊に、有名なエル・エスコリアルが創設された以降も、この修道院は、王立修道院として王家の庇護を受けた。

見所:

 修道院の建物は、幾世紀にもわたって発展してきたが、中でも、アルフォンソ11世と彼の後継者たちが建てた14〜15世紀の主礼拝堂「テンプロ・マヨール(templo mayor)」が見事。

 また、15世紀の四角いサンタ・カタリーナ礼拝堂、6角形のバロック建築カマリン・デ・ラ・ビルヘンにあるルカ・ジョルダーノの9枚の絵画、フランシスコ・デ・スルバランの絵画で華麗に飾られている16世紀の聖遺物礼拝堂、壮麗なプラテレスクの入り口のあるムデハル様式の回廊など。

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2008年03月18日

コミーリャス&ガウディの「エル・カプリチョ」







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 コミーリャス(Comillas)は、北スペインの小さな海辺の町だが、美しい自然の中に、素晴らしい建築物が集まっていることで、カンタブリアの村の中では最も有名。

 大西洋の波に洗われた断崖の上にあり、その後背地にある雪に覆われたピコス・デ・エウロパ(Picos de Europa)の姿に魅了させられる。

 中世の時代を通じ、コミーリャスは、漁港と牧畜、農業で営まれた小村であった。

 19世紀末に、コミーリャス出身の移民で、船会社で財産を築きあげたロペス(Don Antonio López y López)が戻った頃、キューバとスペインの関係悪化の際に貢献があったとして、コミーリャス侯爵とされて以降、町の建築物が一変した。

 コミーリャス侯爵は、1881〜90年、生家跡にソブレジャーノス宮殿(Palacio de Sobrellano)を建てたが、その建築は、カタロニア地方のアントニ・ガウディの師であるファン・マルトレール(Joan Martorell)に依頼された。隣には、公爵家のパンテオンも建てられた。また、侯爵の寄付による大学も建てられている。

 また、侯爵家の親戚は、ガウディに依頼して自宅を建築したが、これが有名なエル・カプリチョ(El Capricho de Gaudi)で、現在はレストランに。

 こうして、コミーリャス侯爵の登場によって、遠く離れたこの町に、カタロニア地方で当時流行した、ガウディの建築に代表される、カタロニア・モデルニスモ(Catalan Modernismo)が導入された。芸術家や職人が協力して、芸術作品として建物がデザインされたのが特徴。

    ここ、コミーリャスでは、ネオ・ゴシック、ネオ・アラブ、ネオ・ムデハルといった建築に、絵のような建築様式が採り入れられ、周辺では見られない美しさが特徴に。

 侯爵家が、アルフォンソ12世(在位:1875〜85年)を招いた際には、4つの別荘が使われた。その結果、貴族や富裕層がバカンスに訪れるようになった。

 1890年、聖職者の育成施設の創設のためのコミーリャス侯爵家の努力に応え、教皇レオ13世によって、San Antonio神学校がコミーリャスに創設された。

 19世紀末には、コミーリャスは、サンタンデールとともに、北スペインの夏季のリゾート地として有名に。



○コミーリャス(Comillas)

☆ 写真集

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○ピコス・デ・エウロパ(Picos de Europa)

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2008年03月17日

サンタンデール&アルタミラ洞窟







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 スペイン北部のカンタブリア州(Cantabria)は、ビスカヤ湾(カンタブリコ海)に面した、スペインの自治州の1つで、カンタブリア県のみの1州1県。

 州都(県都)は、サンタンデール(Santander)。東はバスク、南はカスティーリャ・レオン、西はアストゥリアスの各自治州に囲まれている。

 海岸線には美しい砂浜や、切り立った断崖が連なり、内陸部は、標高2613mのペニャ・ビエハ(Peña Vieja)をはじめとする「ヨーロッパの峰々」(Picos de Europa)に覆われ、ピコス・デ・エウロパ国立公園の一部に含まれている。

 西岸海洋性気候特有の寒暖の差が少ない温暖な気候で、他の降水量が多く、また山岳部の雪解け水が流れ込むことから、延長は短いが多くの川が流れる、スペインの中では最も緑豊かな地方。

 サンタンデールから、西へ約30kmの、サンティリャナ・デル・マール近郊にある洞窟が、世界史の教科書の最初に登場するアルタミラ洞窟(Cueva de Altamira)で、ユネスコの世界遺産に登録されている。

 アルタミラの洞窟は、奥行約270m。先史ヨーロッパ時代の区分で主にマドレーヌ期(約1万8千年〜1万年前)と呼ばれる旧石器時代の末期に、野牛、イノシシ、馬、トナカイなどの動物を中心とする壁画が描かれた。

 約1万3千年前に、落石によって洞窟の入り口が閉ざされたと考えられ、これにより洞窟が封印されることになった。

 1879年、この地の領主ソウトウラ(Marcelino Sanz de Sautuola)の5歳の娘マリアによって偶然発見され、これらの絵が旧石器時代のものであると考えたソウトウラによって、翌年発表された。

 しかし、荒唐無稽な話として、学界からは否定され、その後、1900年代になって旧石器時代の絵と認識されるようになった。

 その後、多くの研究者や観光客が訪れ、そのために壁画が傷んだことから、現在は一般には公開されておらず、最寄りのアルタミラ博物館に精巧なレプリカが展示されている。

○ サンタンデール

 サンタンデール(Santander)は、人口約18万人の古くからの港湾都市で、3世紀に殉教したサン・エメテリオ(St Emeterio)が流れ着いたという伝説にちなんだ名称。

 中世後期には、カスティーリャ王国の重要な港の1つとなっていたが、特に、新大陸との貿易の拠点となり、1755年に市となった。

 1908年、市が、アルフォンソ13世に夏の離宮として、マグダレナ宮殿(Palacio de la Magdalena)を建築し、贈呈した。国王のお気に入りの避暑地であったが、1931年に共和制が成立し、国王が亡命後は閉鎖され、翌年からは大学の施設に。

 1941年には、強風の南風による大火で旧市街の多くを失い、ロマネスク様式の大聖堂も内部まで被害を被った。

 今日、温暖で雨も多い気候、豊かな緑と自然などにより、ヨーロッパ人には、人気の旅行先となっており、特に、サーディネーロ(El Sardinero beach)のビーチは、街にある美しいビーチとして知られる。

 マグダレナ宮殿は、街の西にあるマグダレナ半島(Magdalena)にあり、現在は、外国人向けのスペイン語の夏期講習の施設に利用されている。これは、サンタンデ−ルが、王室との関係から、きれいな標準スペイン語が話される土地柄であることから。



○アルタミラ洞窟(Altamira Cave)

☆ 写真集

○サンタンデール(Santander)

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ www.visitasturias.co.uk

☆ museodealtamira.mcu.es

☆ ユネスコ世界遺産HP



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YouTube動画 その1
★costas de cantabria-santander-españa-spain rent holiday hous


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★ALTAMIRA


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★Altamira Cave


YouTube動画 その4
★SANTANDER - MUCHOVIAJE.COM


YouTube動画 その5
★Santander "Un recorrido rápido"


YouTube動画 その6
★Santander, Faro Cabo Mayor y Santillana del Mar. Espana




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2008年03月15日

テルエルの恋人たち 世界遺産「サン・ペドロ教会」etc.







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 テルエル(Teruel)は、スペイン東部内陸、アラゴン州、テルエル県の県都で、人口は約3万4千人。マドリッドからは約300km。

 テルエルは、メセタ高原の北東部、トゥリア川に臨んだ山間の絶壁の上にある町で、標高は915m、大陸性気候のため冬は厳寒、夏も暑い。

 テルエルは、8世紀以降、イスラムの支配下にあったが、11世紀初頭、コルドバの後ウマイヤ朝が内乱で崩壊すると、イベリア半島のイスラム勢力は分裂し、タイファ諸国のバレンシア王国の支配下にあった。

 1238年、アラゴン連合王国のハイメ1世(在位:1213〜76年)によって、バレンシア王国が征服され、アラゴン王国が拡大した。

 テルエルは、レコンキスタによりキリスト教圏に入ったが、優れた建築技術を持ったイスラム教徒ムスリムは、残留することを許され、平和裏に共存したことで知られている。これらのムスリムがムデハルと呼ばれた。

 彼等は、レンガや装飾タイルなどのイスラム建築の建材と、菱形の編み目や幾何学模様の寄せ木細工などの装飾によって、西欧的なものとを巧みに組み合わせ、ムデハル様式の建築物を生み出し、12〜16世紀のテルエルの黄金期に多くの建築物を造っていった。

 1259年、元の教会のあった場所に、今日の大聖堂が建てられた。

 中世の14世紀には、ユダヤ人のコミュニティがあり、商業や毛織物業を生業とし、高額の税金を納めることで、幾つかの特権を得ていた。

 しかし、1391年には、キリスト教への改宗を求められ、これに従わない者は命を奪われる迫害が起こった。

 その後、スペインの中心がマドリードへと移行し、さらに、新大陸の発見で、地中海のバルセロナの衰退などから、山間部の交易路にあったテルエルも取り残されることに。

 また、スペイン内戦でも、1937〜38年の「テルエルの戦い」は最も激しく、悲惨な戦いで、共和国軍とフランコ軍人民戦線政府、反乱軍、双方の犠牲者は3か月間で10万人に上った。

見所:

 テルエルには、イスラム教徒の影響による美しい建築物があり、旧市街にある華麗なサンタ・マリア大聖堂(Catedral)など、4つの教会が、「アラゴンのムデハル様式の建築物」の一部として世界遺産に登録されている。1986年に、「テルエルのムデハル様式建造物」から、登録対象の拡大により、2001年に名称が変更された。

☆ 世界遺産登録物件;

☆ サンタ・マリア大聖堂(Catedral de Teruel)Cathedral of Santa María de Mediavilla、サンタ・マリア・デ・メディアビージャ大聖堂)
 1259年に建築され、テルエルのムデハル様式の中では最古のもので、外壁は、レンガと彩色タイルで埋め尽くされている。

 大聖堂の天井は、野菜の模様、幾何学模様、エピグラフィア(碑銘学)模様というムスルマン文化の伝統が見られる。

☆ サン・ペドロ教会(Churches of San Pedro)と塔
 ムデハル様式の塔を持つ16世紀のサン・ペドロ教会は、スペイン内戦で損傷を受け、後に修復された。

 ここには「テルエルの恋人たち」の悲話の主人公ディエゴとイサベルの遺骸が安置されていることで有名。

 13世紀に、裕福な家の女性イサベルと、貧乏な家の男性ディエゴが愛し合ったが、イサベルの父親は、5年の間に富と名誉を手に入れて来るという条件を出す。

 ディエゴが苦労の末に戻ると、イサベルは父親の選んだ名家の男との結婚式を終えたばかり。ディエゴが亡くなり、イサベルも葬儀後、その遺体に取りすがったまま、息絶えていたというもの。

 伝説化していた彼らの墓が16世紀になって発見され、サン・ペドロ教会の安置室に並べて指を絡めて眠っている。

 この物語に触発されて、サラマンカ出身のスペイン後期ロマン派音楽の作曲家トマス・ブレトン(Tomás Bretón)がオペラを作曲している。

  ☆ サン・マルティン教会と塔(Torre de San Martín&Church of San Martín
 教会は、17世紀の建築だが、ムデハル様式の塔は、13世紀の建築で、テルエルで最も美しいとされている。壁に飾りとして組み込まれているのをアルコ・ロブラドと呼ぶ。

☆ エル・サルバドル教会の塔(San Salvador tower
 塔は、鐘楼まで登ることが出来る。



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★Viaje a Teruel


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★Teruel mudéjar


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★Teruel


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★TERUEL FOTOS ANTIGUAS


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★Teruel existe




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2008年03月14日

ラマンチャの風車群&『ドン・キホーテ』







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 セルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra、1547〜1616年)は、小説『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(Don Quixote de la Mancha)の著者として、また、同時代、後世に大きな影響を与えた世界的大文学者の一人として知られる。

 シェイクスピアも、『ドン・キホーテ』を読んでいたと言われ、ディケンズ、ドストエフスキー等、その影響を受けた文学者達も多い。

 また、音楽では、リヒャルト・シュトラウスの管弦楽、交響詩『ドン・キホーテ』作品35や、モーリス・ラヴェルの連作歌曲集『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』など。そのほか、映画、演劇、バレエにも。

 『ドン・キホーテ』の有名なシーン、下級貴族の主人公ドン・キホーテが、ヨーロッパで流行していた騎士道物語の読み過ぎで、妄想に陥って、風車に突進するシーンについては、騎士姿のドン・キホーテがスペインを象徴し、風車が、やがて独立を果たすことになるオランダを象徴していると言われている。

 1571年、セルバンテスは、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍がオスマン帝国海軍に大勝利を果たしたレパントの海戦に従軍し、左手が不自由になるほどの怪我を負っているが、この頃、スペインは最盛期を迎えていた。

 一方、1568年、スペインが支配したネーデルラントでは、フェリペ2世によるプロテスタント弾圧への反乱が起こり、八十年戦争とも言われるオランダ独立戦争が、1648年まで続くことに。

 『ドン・キホーテ』の前編は、1605年に出版され、後編は1615年に出版された。この時代の旧態依然としたスペイン王国への批判精神に富んだ作品とも解釈されている。

 ドン・キホーテの舞台となったラマンチャ地方(La Mancha)は、マドリッドの南に広がる赤茶けた大平原で、トレド県を中心に、クエンカ、シウダ・レアル、アルバセテの4県にまたがる。

 ラマンチャは、アラビア語の「乾いた土地(Manxa)」に由来。スペイン中央部に位置し、冬の小雨はあるも、大陸性気候で年間を通じて乾いた風が吹き抜ける乾いた大地であることによる。

 このため、水車ではなく、風車が多く造られた。ドン・キホーテが、巨人「ブリアレーオ」の長い腕と見間違えたのは、当時30以上も並び立つ巨大な風車の羽根だった。

見所:

○ カンポ・デ・クリプターナ(Campo de Criptana)
 『ドン・キホーテ』の第8章は、「ここで、彼等には、平原に立つ30ないし40の風車が目にとまった・・・」と始まる。

 シウダ・レアル県(Ciudad Real)にあるカンポ・デ・クリプターナの丘には、現在10基の風車が保存されている。サルディネロ(Sardinero)、インファント(Infanto)、ブルレッタ (Burleta)などの愛称がつけられている。

 白壁の美しい小さな田舎町で、セルバンテスが「ドンキホーテ」を執筆したという当時の宿が残っており、今はレストランに。

☆ 写真集

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○ アルカサル・デ・サン・フアン (Alcazar de San Juan)
 シウダ・レアル県のアルカサル・デ・サン・フアンは、ラ・マンチャの中心地。アルカサル(Alcazar)はムーア人の要塞に、サン・フアン(San Juan) は、騎士セント・ジョン(knights of St John)に因んだ名称。 「ドンキホーテ」の物語上の出来事は、アルカサル周辺でのこと。

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○ エル・トボソ(El Toboso)
   トレド県にあるエル・トボソには、物語に登場する麗しの姫ドゥルシネアの館(Museo Casa de Dulcinea del Toboso)や、セルバンテスセンター、ドン・キホーテのモニュメント等がある。

○ コンスエグラ(Consuegra)
 トレド県にあるコンスエグラは、人口約1万人の町。カルデリコ山の麓に、18世紀になって造られた、11基の風車が保存されている。  サンチョ(Sancho)、ルシオ(Rucio)、ボレロ(Bolero)、エスパルテロ(Espartero)と名付けられた風車は、昔ながらの装置がそのままに近い形で残る。  しかし、ここは観光ルート上便利なので、ツアーによく入れられるが、18世紀になって造られたものであるため、「ドンキホーテ」の物語とは関係がない。

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YouTube動画 その1
★Alcázar de San Juan


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★Campo de Criptana (Ciudad Real)(カンポ・デ・クリプターナ)


YouTube動画 その3
★alcazar de san juan


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★Un día en Consuegra (コンスエグラ)


YouTube動画 その5
★Imagenes de Alcázar de San Juan


YouTube動画 その6
★Miradas - Alcázar de San Juan


YouTube動画 その7
★Cervantes - Don Quijote


YouTube動画 その8
★La Ruta del Quijote




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2008年03月12日

ウベダ 「アンダルシアの隠れた宝石」







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 ウベダ(Úbeda)は、スペイン南部、アンダルシア州ハエン県の町で、人口約3万6千人。

 2003年、12km離れた西隣の町、バエサ(Baeza)とともに、「ウベタとバエサのルネッサンス様式の建築物群」として世界遺産に登録された。

 歴史は、先史時代まで遡るが、ローマ人、西ゴートの時代を経て、イスラムの時代には重要な町になり、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン2世(在位:822〜52年)によって、再整備された。

 1212年、アルフォンソ8世が、一旦、この町を奪ったが、まもなく奪い返された。

 1233年、カスティーリャ王フェルナンド3世(在位:1217〜52年)が、レコンキスタの結果、支配下に収めたが、その後、長きにわたって、イスラムと、キリスト、ユダヤの文化が共存した。

 ウベラは、グラナダとカスティーリャの境界となり、地理的な戦略上重要であったため、カスティーリャ王は、カスティーリャとレオンからの人口の増加を図るため、種々の優遇措置を講じた。

 都市の防衛、土地の所有などを規定したクエンカ都市法(Fuero de Cuenca)に基づき、これを運用する委員会を巡って権力の世襲者間の争いが熾烈になっていった。

 その後、カルロス1世(在位:1516〜56年)の宰相フランシスコ・デ・ロス・コボス(Francisco de los Cobos)を排出したコボス家がこの町を支配した。

 コボスが、フィレンツェのような美しい街を造りたいと、ルネサンス様式の都市設計を用いて、街造りに力を注いだ結果、バスケス・デ・モリーナ広場Plaza Vázquez de Molina)を中心に、 壮麗な教会や宮殿などの美しい建築物が残され、ウベダは、「アンダルシアの隠れた宝石」と言われるように。

見所:

 ウベダは、ひまわり畑、オリーブ畑に囲まれたアンダルシアの丘の上にある町。旧市街の中心地バスケス・デ・モリーナ広場の周囲には、歴史的モニュメントが立ち並んでいる。

○ バスケス・デ・モリーナ宮殿(Vázquez de Molina Palace)☆ 写真集 @ A
   フェリペ2世の宰相を務めたバスケス・デ・モリーナが建てさせた宮殿で、かつて正面の装飾に鎖がかかっていたことから、チェーン・パレスとも呼ばれ、現在はウベラの市庁舎になっている。

○ エルサルバドール教会(Capilla del Salvador )☆ 写真集 @ A B C D E F G H
 カルロス1世の宰相フランシスコ・デ・ロス・コボスによって自身のパンテオンとして建てられた。この礼拝堂は町を代表する建築物で、そのファザードはアンダルシアで最も美しいと言われる石の彫刻。

  ○ デアン・オルテガ宮殿(Deán Ortega Palace) ☆ 写真集 @ A B C D 
 隣のエルサルバドール教会の主席司教の館で、16世紀のルネサンス様式の建物。現在は、パラドールとして使用されている。

○ サンタマリア教会(Saint Mary of the Royals Alcazars church) ☆  写真
 かつてのモスク跡に建てられた教会で、ゴシック、ルネサンス、バロックの様式が混在する。スペイン内戦で甚大な被害を被ったが、1983年以来復旧のため閉鎖中。

○ サンチャゴ病院(Hospital de Santiago) ☆ 写真
16世紀末に建築され、鐘楼とルネサンス様式の中庭がある。



☆ 写真集 @ A B C D E F G H I

☆ 写真集

☆ バーチャル・ツアー

☆ www.ubedainteresa.com

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★Ubeda, en general


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★Úbeda es de cine (Jaén)


YouTube動画 その3
★Úbeda es de cine (Jaén) 2


YouTube動画 その4
★Vista general de Úbeda


YouTube動画 その5
★Artesanía en Úbeda




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2008年03月11日

バエサ 世界遺産のルネサンス建築







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バエサ(Baeza)は、スペイン南部、アンダルシア州ハエン県にある人口約1万5千人の町。マドリッドから列車で約3時間半。

 南のグアダルキビル川(Guadalquivir)、北のグアダリマル川(Guadalimar)に挟まれた山地の上にある。街の周辺は、オリーブ畑が連なる。

 ローマ時代に築かれた町であるが、今日では、イタリア・ルネサンスの建築がよく保存されていることで知られ、12km離れた東隣の町、ウベダ(Úbeda)とともに、2003年、「ウベタとバエサのルネサンス様式の建築物群」として世界遺産に登録された。

 「双子の町」といわれるバエサとウベダは、イスラム勢力がイベリア半島に進出した際、イスラム教徒に占領され、イスラム文化が開花し、ルネサンス様式やゴシック様式の建造物のほか、イスラム建築も残っている。

 中世には、人口5万人のムーア人の街として繁栄していたが、1227年、カスティーラ王フェルディナンド3世のキリスト勢力軍に敗れた。アンダルシア地方で最も早い時期にキリスト教徒に奪還され、カスティーヤ王国に併合された地域にある。  コルドバやウベラにある門と、バエサのアーチはムーア人の残した要塞の名残。

 16世紀には、織物生産でバエサもウベダも潤い、司教座と大学が置かれた。地元の富豪、名士達は、著名な建築家を雇い入れ、宮殿、教会、広場を当時ファッショナブルなイタリア・ルネサンス様式で造っていった。

   17世紀に、経済が破綻したが、このことが不幸中の幸いで、その後新規の建物が建たなかったことから、バエサのルネサンス様式の建築物がそのまま残されることに。また、新大陸ラテンアメリカでの都市設計にも大きな影響を与えたとのユネスコの評価。

 このため、バエサの街並みは、スペインよりもイタリアに近く、明るく、統一感、均整のとれたものに。

 バエサのルネサンス様式の建築物の主なものは、1538年に創設された大学(現在はグラナダ大学のサマースクール)、カテドラル、ハバルキント宮殿、スペイン広場などで、それぞれ近接している。

見所:

○ カテドラル(Catedral)☆ 写真集 @ A B A B C D E F G H 
  イスラム寺院跡に建設された。ムデハル様式の礼拝堂が3つ、 ゴシック様式の礼拝堂が1つあり、ゴシック様式の廻廊も有名。

○ ハバルキント宮殿(Palacio de Jabalquinto)☆ 写真集 @ A
 ゴシック様式の宮殿で、18世紀初頭から司教本部として使われている。もとの建物から、 その後幾度もの改修が行われ、 ゴシック様式のファサード、 ルネサンス様式の中庭、 バロック様式の階段などが見物。

○ 市庁舎(Ayutamiento)☆ 写真
 市庁舎の建物は、かつて牢獄や裁判所として使われていた時代も。



☆ 写真集

☆ 写真集 @ A B C D E F G H I

☆ 写真集 J K L M N O P Q R S 

☆ 写真集

☆ 写真集

☆ www.euroresidentes.com

☆ ユネスコ世界遺産HP



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YouTube動画 その1
★Baeza es de cine (I)


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★Baeza es de cine (II)


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★BAEZA VIAJE EN SEMANA SANTA


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★Driving through Baeza


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★Baeza Catedral




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2008年03月09日

マラガ  コスタ・デル・ソル&ピカソ




☆ 地図と写真(panoramio)

 マラガ(Málaga)は、スペイン南部、アンダルシア州マラガ県の県都で、人口約56万人で、スペイン第6位。

 地中海に面し、リゾート地コスタ・デル・ソルの中心で、画家ピカソの出身地としても有名。

 紀元前1000年頃、フェニキア人が、マラカ(Malaka)という植民市を築いたのが起源で、「マラカ」はフェニキア語の「塩」から来ており、港で魚が塩漬けにされたことによると考えられている。

 その後、カルタゴ、ローマの支配を経て、5世紀には、西ゴート王国の支配下に。

 8世紀に、イベリア半島はイスラム教徒に征服され、マラガは重要な貿易の中心地に。マラガは、後ウマイヤ朝に領有されたのち、タイファ時代にはグラナダとは独立した王国の首都となった。

 レコンキスタの最終時期、1487年に、スペイン王国に征服された。

 1881年、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973年)が、マラガで生まれた。父のホセ・ルイス・ブラスコは、アンダルシア地方、サン・テルモ工芸学校美術教師であった。  1936年、スペイン内戦では、フランコの反乱軍とイタリア軍により激しい空爆にさらされた。

 1960年代以降、マラガは、コスタ・デル・ソルの中心地として、コスタ・デ・ソルのリゾート、観光業によって経済は大きく発展。

 イギリス、アイルランド、オランダ、ドイツなどから格安航空便が飛んでおり、セビリャ、コルドバ、グラナダ、ハエンなどへ鉄道やバス、乗用車で訪れる拠点となっている。

見所:

○ カテドラル(Cathedral)

 ムーア人からマラガが奪還された際、破壊されたモスクの跡に、1528年に建築が始まり、完成が1782年であったため、ゴシック様式を基本に、ファザードはルネサンス様式、塔はバロック様式に。

○ アルカサバ(La Alcazaba)

 ローマ人が築いた要塞跡に、11世紀にムーア人によって要塞が建てられた。3つの城壁のうち2つが残っており、100の塔と3つの宮殿が残る。丘の上に建っており、街と海の眺望が素晴らしい。

○ ヒブラルファロ城(Gibralfaro Castle)

 アルカサバに隣接し、2つの塔から地下通路で結ばれている。ヒブラルファロには、もともとフェニキア人の築いた灯台があったものと考えられており、この跡に、(Abderramn III)によって要塞が造られ、14世紀に(Yasuf I)によって城に改築された。

○ ローマ劇場(Roman Theater)

 アルカサバの直ぐ下にあり、直径31m、高さ19mもあるが、1951年になって発見された。ムーア人が、アルカサバの建設に、その石材を利用しており、3世紀以降は放置されていた。

○ マラガ・ピカソ美術館(Picasso Museum)

 旧市街にあり、カテドラルとメルセド広場(Plaza de la Merced)近くのピカソの生誕地に隣接している。16世紀の宮殿(Palacio de Buenavista)が修復され、2003年にオープン。ピカソの家族からの寄贈された作品が主体。

○ 闘牛場(Malaga Bullfighting Ring)

 1874年に造られ、1万5千人を収容。



☆ 写真集

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☆ 写真集

☆ 写真集

☆ 写真集

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☆ マラガ・ピカソ美術館(Museo Picasso de Málaga)

☆ www.malaga.us/top-attractions.htm

☆ www.spanish-town-guides.com



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◆ 都市名、人名など、キーワードによる検索で、関連の記事が見つけられます。ご活用ください!!



YouTube動画 その1
★Málaga en imágenes


YouTube動画 その2
★Malaga, Spain


YouTube動画 その3
★Trip to Malaga, Spain


YouTube動画 その4
★Alcazaba in Malaga


YouTube動画 その5
★Málaga ciudad del paraiso


YouTube動画 その6
★Málaga, España (Spain)


YouTube動画 その7
★Málaga (1) - Andalucía es de Cine


YouTube動画 その8
★Málaga


YouTube動画 その9
★Estepona Málaga




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2008年03月08日

カディス コスタ・デ・ラ・ルス







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 カディス(Cádiz)は、スペイン南部、アンダルシア州、カディス県の県都で、人口は約13万人。セビリアから125km、列車で約2時間。

 カディスの起源は、紀元前10世紀頃、地中海交易で活躍していたフェニキア人が築いた拠点、ガディル(Gadir)とされ、ヨーロッパでも最古の都市に数えられる。

 当初はイベリア半島の一部ではなく、半島から離れた小島で、土砂の堆積などによって、幅の狭い地峡によって、イベリア半島と結びついたと考えられている。

 その後、ローマ帝国、西ゴート王国の支配を経て、イスラム勢力の支配下に。

 13世紀半ばに、カスティーリャ王国のアルフォンソ10世がイスラム勢力からカディスを奪い、再びキリスト教勢力の統治下に。

 その後、カスティーリャ王国とアラゴン王国が合併してスペイン王国が成立したことにともない、カディスはスペイン領となった。

 大航海時代の到来によって、大西洋貿易の拠点として、カディスは重要な港となった。

 新大陸到達で知られるコロンブスも、第2回、第4回の航海はカディスから出発している。

 その当時、スペインに代わって交易の主導権を握ろうとしていたイングランドは、たびたびカディス周辺で海賊行為を行った。

 18世紀初頭のスペイン継承戦争で、ブルボン家のスペイン王位が承認されると、商業活動の振興を図るブルボン家のもとでカディスはさらに発展。

 19世紀に、ナポレオン・ボナパルトがスペインを侵略した際、カディスにはその支配が及ばず、カディスのサン・フェリペ・ネリ教会で、スペイン初の近代議会とされる国民議会が開催された。

 1812年には、国民主権を確認し、それまでの身分制社会の封建的諸制度を撤廃する、カディス憲法が採択された。しかし、スペインに戻ったブルボン家の国王は、憲法に理解を示さず、絶対君主として振る舞おうとした。

 こうした歴史的経緯と、自由を重んじる気風から、19世紀のカディスは、自由主義的な運動の発端となった。

 ウィーン体制の発足後、ブルボン家の復古王政下で、1820〜23年の間、リエゴのもとで、自由主義的改革が図られたが、鎮圧された。

 1868年の九月革命で、ブルボン家の国王が亡命する際も、カディスでの蜂起がその契機となった。

 20世紀には、アサーニャの人民戦線内閣に対して、スペイン領モロッコで蜂起したフランコが、モロッコとイベリア半島を結ぶ重要な拠点として早期に占領した。

見所:

 コスタ・デ・ラ・ルス(Costa de la Luz、光の海岸)と呼ばれ、カディスの海岸線は、260kmにもおよぶ。カディスは、大西洋に突き出た要塞の町で、きめ細かい白浜の美しい海水浴場が数多くある。

 カディスの旧市街地には、街を囲む城壁の一部が残り、旧市街は、EUの文化財として保護されている。ペドロ1世の居城がそびえ、海岸沿いの遊歩道から見るカテドラル一帯の景観が美しい。

○ 大聖堂(Catedral de Cádiz)

 16世紀末に、旧大聖堂が焼失して、1776年からバロック様式で建築が始まったが、完成したのは116年後。このため、ロココ様式、最終的にはネオクラッシック(新古典主義)様式に。大聖堂に輝く金色のドームが印象的。礼拝堂には、旧聖堂から引き継いだ多くの絵画があり、内装も豪華。

○ 市庁舎(City Hall)

 サン・ファン・デ・ディオス広場にある。

○ 大地の門(Las puertas de tierra)

 16世紀の城壁の門で、旧市街の入り口にある。

○ サン・フェリペ・デ・ネリ教会(Church of San Felipe Neri)

 19世紀に、ナポレオンがスペインを侵略した際、この教会で、スペイン初の近代議会とされる国民議会が開催された。

○ サンタ・カタリーナ城(Castillo de Santa Catalina)

 カレータ海岸(Caleta)の端にあり、イギリスのカディス攻撃の2年後、1598年に築かれた要塞。 ○ タビラの塔(Torre Tavira)

 商人達は、船の到着を見られるように、自宅に塔を建て、18世紀には、カディスには160もの塔が立ち並んでいた。タビラの塔もその商人の名に由来し、カディスで最も高い建物。



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2008年03月07日

サグラダ・ファミリア







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 サグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)は、スペインの建築家ガウディ(Antoni Gaudí、1852–1926年) が、バルセロナに残した未完の教会堂建築で、ガウディの代表作の1つ。

 サグラダ・ファミリアとは「聖家族」を意味し、正式名称は、El Temple Expiatori de la Sagrada Famíliaで、民間カトリック団体「サン・ホセ協会」が、貧しい人々のために、聖家族に捧げる贖罪教会として建設を計画した。

 初代建築家フランシスコ・ビリャールが、無償で設計を引き受け、1882年に着工したが、意見の対立から翌年に辞任。

 その後を引き継いで、2代目建築家に任命されたのが、当時は未だ無名だったアントニ・ガウディで、以降、ガウディは設計を一から練り直し、1926年に亡くなるまで、ライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・施工にあたった。

 しかし、完成されたのは、地下の祭室と、東側の「キリストの生誕のファザード」のみ。

 ガウディは、大型模型や、紐と錘を用いた実験道具を使って、構造を検討したとされ、仔細な設計図を残しておらず、弟子たちがガウディの構想に基づき作成した資料なども、大部分がスペイン内乱などで消失し、模型も破片になってしまった。

 このため、ガウディの構想が不明となった建築物の建設を続けるべきか否かの議論もあったが、職人による伝承や、大まかな外観のデッサンなど、残されたわずかな資料を元に、ガウディの設計構想を推測しながら、現在も建設が行われている。

 現在も8つの尖塔がそびえるが、完成すると、95m×45mのラテン十字プラン上に、高さ170mの塔を含む19塔が林立する大聖堂となる。

 東側の「キリストの生誕のファザード」では、キリストの誕生から、初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。3つの門は、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴する。

 西側の「受難のファサード」には、イエスの最後の晩餐から磔刑、昇天までの場面が彫刻されている。

 予測では、完成は2026年前後とされ、建築と並行して修復も行われている。

 1984年、「バルセロナのパルケ・グエル、パラシオ・グエル、カサ・ミラ」の名称で、ガウディの建築物が世界遺産の登録を受けていたが、サグラダ・ファミリアは含まれていなかった。  その後、地下聖堂と、主任彫刻家として外尾悦郎が手がけた生誕のファサードとが、「アントニ・ガウディの作品群」として名称変更の上、2005年に追加登録された。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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2008年03月06日

サラゴサ アラゴン王国の古都







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 サラゴサ(Zaragoza)は、スペイン北東部、アラゴン州の州都、サラゴサ県の県都。人口は、約65万人でスペイン第5位と、州の人口の約半分、県の人口の約4分の3が集中。2003年に開通した高速鉄道AVEで、マドリードから1時間半。

 スペイン北東部を流れるエブロ川の中流に位置し、中世にアラゴン王国の都が置かれた。

 古代ローマ時代、アウグストゥスにより、植民市「カエサラウグスタ」が築かれた。

 紀元2世紀に繁栄し、ローマ浴場や劇場などの公共施設が建てられ、今に残されている。

 3世紀には、ローマの城壁が建設された。409年頃、スエビ族や西ゴート族などのゲルマン人がイベリア半島に侵入を始め、サラゴサはその頑丈な城壁で守られていたが、472年、ついに西ゴートに陥落。

 7世紀には、セビリャ、トレドと並んで西ゴート王国の文化の中心地となった。

 714年以降、ウマイヤ朝イスラム勢力の支配下、スペイン北部で最大のイスラム都市となり、ピレネー山脈のキリスト教諸国との前線となった。

 後ウマイヤ朝(Caliphate of Córdoba)が内乱で崩壊すると、イベリア半島のイスラム勢力は分裂、抗争するようになり、1018から1世紀の間は、タイファ諸国の1つ、サラゴサ王国に。この頃、アルハフェリア宮殿が建てられた。

 北では、1035年、ナバラ王国が分割相続されて、アラゴン川の渓谷を相続したラミロ1世が、アラゴン王国の初代国王(在位:1035〜63年)に。  やがて、北アフリカのサハラ砂漠西部に興ったムラービト朝(アルモラビト朝)が、モロッコから、コルドバ、セビリャを占領、1110年、サラゴサ王国も占領された。

 しかし、1118年、ムラービト朝の強力な指導者がいなくなると、アラゴン王国のアルフォンソ1世(在位:1104〜34年)が征服。これ以降、サラゴサは、アラゴン王国の首都となった。多くのイスラム教徒が立ち去ったために人口が減少し、フランスやナバラからの植民が行われた。

 1137年、アラゴン王家とバルセロナ伯家が婚姻を通じて、両家の連合が成立。アラゴン、バルセロナともそれぞれ別のコルテス(議会)を持ち、法制度の違いも残ったが、王家は一本化されカタルーニャ・アラゴン連合王国に。

 強大化したアラゴン連合王国は、レコンキスタを加速化させ、1229年には、ハイメ1世がイスラム教徒が支配するバレアレス諸島を占領、1238年には、バルセロナの南にあるイスラムのバレンシア王国を征服。

 これによってイベリア半島におけるレコンキスタは一応終結し、アラゴン王国はバルセロナを拠点に地中海へ発展していく。

 1282年、シチリア島民がフランス・アンジュー家の圧政に反して蜂起、アラゴン王ペドロ3世がシチリア王として迎えられ、以後、アラゴン王家が代々シチリアを支配した。

 1469年、アラゴンの王子フェルナンドが、カスティーリャの王女イサベルと結婚し、1479年には、アラゴン王国とカスティーリャ・レオン王国(首都トレド)の同君連合が成立、スペイン(イスパニア)王国(Spanish Monarchy)が誕生した。

 しかし、カスティーリャ王国との連合、スペイン王国の成立は、アラゴン王国の地位を低下させることに。両国の国力の差は歴然で、カスティーリャ王国に取り込まれ、1561年に、ハプスブルク家出身のフェリペ2世によって、宮廷はマドリードに。

 さらに、新大陸の発見で、地中海での影響力は弱体化、16世紀以降は、オスマン帝国によって地中海帝国の座を奪われて行った。

 1808〜09年、ナポレオン軍の侵入に抵抗した半島戦争では、サラゴサは、2度にわたって攻囲された。

 1908年、サラゴサで「スペイン・フランス博覧会」が開かれ、100年後の今年6〜9月に、「水と持続可能な開発(Water and Sustainable Development)」をテーマに、「サラゴサ万国博覧会」が開かれる。

見所:

○ ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂(Basilica del Pilar)

 紀元40年、ヤコブの前に、聖母マリアが柱(ピラール)の上に立って現れたという伝説がある。現在の建物は17〜19世紀にかけて建てられたもの。

○ カテドラル「ラ・セオ」(Cathedral of San Salvador、La Seo)

 ロマネスク、ゴシック、ムデハルなどの建築様式が融合する大聖堂で、「セオ」は、アラゴン語で「大司教座」を意味する。

○ アルハフェリア宮殿

 タイファ時代、イスラム君主によって建てられた城で、アラゴン王国の宮殿としても使われた。

 世界遺産「アラゴンのムデハル様式の建築物」には、サラゴサの3つの建築物が含まれている。

 ☆ アルハフェリア宮殿(La Aljafería)のムデハル様式の遺跡(写真 @ A B)

 ☆ ラ・セオの後陣、礼拝堂(パロキエタ)、ドーム(写真 @ A)

 ☆ サン・パブロ教会の塔と教区教会(写真 @



☆ 写真集(El Pilar) @ A B C D E F G H I

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★ZARAGOZA


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★ANDANDO POR ZARAGOZA CON JULIETA VENEGAS


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★Zaragoza Architecture past present Future


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2008年03月05日

バルセロナ 観光情報







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 バルセロナ(Barcelona)は、スペイン北東部のカタルーニャ自治州の州都、バルセロナ県の県都で、人口約160万人は、マドリードに次ぐスペイン第2の都市。

 フランスとの国境であるピレネー山脈から160km南の地中海沿岸に位置し、スペイン最大の港湾都市。

   先史、古代から、スペイン東部沿岸には、イベリア人(Ibero)が定着し、青銅技術、農業、金属加工術を持ち、フェニキア人、ギリシャ人、カルタゴ人などと地中海貿易を行っていた。

 第1次ポエニ戦争の後、カルタゴに支配され、バルチーノが建設されたとされる。その後、カルタゴに代わってローマの勢力が入り込み、ローマ軍の駐屯地、カストルムを、現在の市庁舎(Sant Jaume 宮殿)近くの小さな丘(Mons Taber)に築いた。ローマは、幾たびもの戦争を通じて支配を広げ、紀元後1世紀までかかって、イベリア半島全域をローマの属領にした。

 5世紀には西ゴート族に、8世紀にはムーア人に征服され、さらに、9世紀初めキリスト教徒が奪還して、フランク王国の支配下に入るが、985年には、後ウマイヤ朝の宰相、かつ名将であったアル・マンスール(Al-Mansur Ibn Abi Aamir)によって占拠、略奪された。

 中世以降は、フランク王国の辺境領としてのバルセロナ伯領が置かれた。1137年、アラゴン王家とバルセロナ伯家が婚姻を通じて、両家の連合、カタルーニャ・アラゴン連合王国にが成立。13世紀にハイメ1世のもとで、バレアレス諸島やバレンシアへのレコンキスタを進めた。

 これによってイベリア半島におけるレコンキスタは一応終結し、アラゴン王国は、バルセロナを拠点に、地中海に発展していく。

 1282年、シチリア島民がフランス・アンジュー家の圧政に反して蜂起、アラゴン王ペドロ3世がシチリア王として迎えられ、以後、アラゴン王家が代々シチリアを支配した。

 アラゴン王家は、14〜15世紀に、シチリアやナポリ王国も支配し、地中海帝国を築いた。

 しかし、1479年に、カスティーリャ王国とアラゴン王国が同君連合となって統一王朝が形成されると、スペインの中心はマドリードへと移行し、さらに、新大陸の発見で、地中海での影響力は弱体化、バルセロナは衰退へ。

 この地方ではカタルーニャ語が話され、独自の文化を持つ。スペイン統一後は独立運動が強まり、19世紀後半からは、商工業の発展とともに労働運動が盛んになり、一時は自治権を獲得。スペイン内戦では共和派最後の拠点に。

 街は、13〜15世紀のゴシック建築がヨーロッパの中でも最も多く保存されている旧市街の「ゴシック地区」も見どころだが、やはり、アントニ・ガウディによる多くの素晴らしい建築が魅力的。

 カタルーニャ独自の建築技術をベースに、イスラム風の装飾、植物を連想させる装飾モチーフ、曲線・曲面を多用したオリジナリティを特徴とする「アントニ・ガウディの作品群」は、1984年、ユネスコの世界遺産に登録された。



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★Casa Batlló...


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バレンシア ラ・ロンハ&ミカレット







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 バレンシア(Valencia)は、スペイン東部、バレンシアの州都、県都であり、人口は約80万人、スペイン第3位の大都市。マドリッドから特急で4時間、バルセロナからも約4時間。

 地中海に面し、温暖な地中海性気候であるが、夏は乾燥して暑く、冬は湿って暖かく、春秋は嵐になりやすい特徴がある。土壌が肥沃で、有名なバレンシア・オレンジ、米の生産高は、スペイン一と言われる。

 観光地としては、世界遺産に登録されているラ・ロンハや、国立陶器博物館、カテドラルなどがあり、3月に開催される火祭りが有名。また、パエリア発祥の地でもある。

 歴史は古く、ローマ軍によって駐屯地が築かれ、紀元前137年、ツリア川(Turia)の畔に町が築かれ、ワレンティア(Valentia 、強さ・活力の意)と名付けられた。

 その後、西ゴート王国、次いで709年、平和裏にイスラム教徒ムーア人の支配下に。イスラムの文化が根付くと、紙、絹、皮、陶器、ガラス細工や銀細工の交易により、繁栄した。この時代の建築上の遺産が多く、古い城壁、浴場、塔などが残り、昔のモスクの尖塔がミカレット(El Micalet、ミゲレテの塔)として名所に。

 1094年、カスティーリャ王国の貴族ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar、1045〜99年)、通称エル・シドが反乱を起こしてバレンシアを征服すると、9つのモスクが教会に変えられたが、1099年に彼が死ぬと、1102年、ムラービト朝(Almoravids、1056〜1147年)に奪回された。

 その後、12世紀半ばに、ムラービト朝が衰えると、スペイン各地にイスラムの小国が分立したタイファ諸国の1つ、バレンシア王国に。

 1238年、アラゴン王ハイメ1世(在位:1213〜76年)が、バレンシア王国を征服。以後、キリスト教国のバレンシア王国となり、バレンシア王はアラゴン王、のちにスペイン王が兼ねたが、バレンシアには自治権が与えられていた。

 15〜16世紀には、バレンシアは地中海でもっとも重要な都市の一つで、ローマ教皇カリストゥス3世(在位:1455〜58年)と、アレクサンデル6世(在位:1492〜1503年)を輩出したボルジア家はバレンシアの出身。

 アレクサンデル6世は、ルネサンス期の世俗化した教皇の代表的存在とされ、親族登用主義が顕著で、その息子チェーザレ・ボルジアは17才でバレンシア大司教に任命されている。

 1700年、スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世が、後継者のいないまま亡くなると、フランス・ブルボン家のアンジュー公フィリップがスペイン王フェリペ5世として即位したため、スペイン継承戦争が勃発。

 カール大公を推すオーストリアは、フランスの勢力拡大を恐れるイギリス、オランダと対フランス大同盟を結び、フェリペの即位に反対してフランス、スペインに宣戦布告したものの、1713年、ユトレヒト条約により、フェリペ5世のスペイン王即位が承認された。

 バレンシアはオーストリアのカール大公の側についていたため、スペイン王家に反逆したとして、カタルーニャとともに、フランス・スペイン軍に蹂躙され、バレンシアは自治権を失った。

 スペイン内戦では、共和国政府が、バレンシアを臨時の首都とし、フランコ軍により包囲された。フランコ時代にはバレンシア語の会話・教育が禁じられたが、スペインの民主化後、1982年にバレンシア州は自治州となり、現在では逆にバレンシア語の教育が義務化されている。

1957年、市内を流れるトゥリア川が大洪水を起こし、河川改修が行われ、旧トゥリア川の跡は7kmにわたる公園となり、1996年に、芸術科学都市が建設された。

見所:

○ カテドラル(Saint Mary of Valencia Cathedral)

 13〜15世紀に建築され、バロック様式の「鉄の門(Irons Gate)」、ゴシック様式の「使徒の門(Apostles Gate)」、ロマネスク様式の「宮殿の門(Palace Gate)」と、3つの入り口が異なる様式。そばの広場はローマ時代のフォーラムだった。

○ ミゲレテの塔(El Miguelete)

 1424年に建てられたカテドラルの角にある高さ51mの八角形のゴシック様式の塔で、最上部に鐘楼がある。キリストの使徒、聖ミカエル(バレンシア語でミゲレテ)にちなんでその名がつけられ、地元の人達は「ミカレット」とも呼ばれる。内部の207段の階段を上ると展望台になっており、バレンシアの街を一望できる。

○ ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(en:Lonja de la Seda)

 1482〜1533年にかけて、イスラム王宮跡に、ゴシック様式で建築された「絹の交易所」で、当時の地中海の主要な商業都市の繁栄振りを物語る建物。「バレンシアのラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(絹の商品取引所)」として、1996年、世界遺産に登録されている。大広間の螺旋模様の柱は、やしの木が葉を広げるように天井につながる。

 プラサ・デル・メルカド(Plaza del Mercado)にあり、ロス・サントス・フアネス教会や、生鮮食料品店が300軒も並ぶバレンシア中央市場(Mercado Central)に面している。

○ セラノス塔(Torres de Serranos)

 14世紀末に建てられた市壁の一部としての門で、凱旋門として、一時は牢として用いられ、ヨーロッパで最大のゴシック様式の門。

○ 国立陶器博物館(Museo Nacional de Ceramica Gonzalez Marti)

 15世紀の宮殿が、18世紀半ばに、ロココ様式に改装され、アラバスター(雪花石こう)で造られた玄関が見事。

 バレンシア北の近郊の町、アルコラ(Alcora)の王立陶器工場で造られたタイルのコレクションが見られる。

○ 芸術科学都市(Ciutat de les Arts i les Ciències)

 サンティアゴ・カラトラヴァの設計により、1996年にオープン。オペラハウス、科学博物館、水族館などからなる。



☆ 写真集(ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ)@ A B C D E F 

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★Valencia a vista de pájaro


YouTube動画 その2
★Valencia a vista de pájaro 世界遺産「ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(絹の商品取引所)」


YouTube動画 その3
★EL MICALET DE VALENCIA


YouTube動画 その4
★Llotja de València


YouTube動画 その5
★France Study Abroad 2006 - Valencia


YouTube動画 その6
★valencia




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2008年03月03日

エスコリアルの修道院と遺跡







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 サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルは、マドリッド郊外、北西約45kmに位置するマドリッド県の町で、人口約9千人。マドリッドから列車で約1時間。

 エル・エスコリアル聖ロレンソ修道院は、シエラ・デ・グアダラマ山脈、アバントス山の斜面に位置する王室御用邸。広大な宮殿、修道院、図書館などからなる複合施設で、「マドリッドのエスコリアルの修道院と遺跡」として、1984年に、世界遺産に登録されている。

 サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルの町には、レコンキスタ以前の古い遺跡が残っているものの、11世紀に、キリスト教徒がこの地域を奪還し、12世紀に再植民されて農業と牧畜を営んでいた。

 1561年、マドリードに宮廷を移し、フェリペ2世は、父カルロス5世の追悼のための霊廟を設置し、スペインにおけるアウストリア家の座を揺るぎないものとするため、エスコリアル修道院の建設を命じた。

 また、フランスとのサン・カンタンの戦いの際、聖ロレンソに奉げられた教会を破壊してしまったことの埋め合わせ、さらに、反宗教改革の研究といった目的も、並存した。

 建物は、フアン・バウティスタ・デ・トレドが手がけ、 ヒアンバティスタ・カステリョ、最後はフアン・デ・エレラの3人の建築家によって、厳格な古典様式で、1563〜1584年にかけて造営された。

 過度の装飾を一切排除し、線が主役を演ずるエレラ様式と言われる建築様式が特徴で、ファサードの全長は207m。

 約3万3千uの四角い建物は、全長207mファサードから、教会正門を飾るユダの王たちの像が見える「王たちの中庭」に抜ける。

 丸屋根がある教会には、43の祭壇と礼拝堂があり、王室礼拝堂の下には、アウストリア家、アブスブルゴ(ハプスブルク)家、ボルボーン(ブルボン)家の5世紀の間の王達26人の棺をはじめ、王族の墓がある王室霊廟になっている。

 教会内陣の後には、アウストリア家の宮殿があり、スペイン王国が勝利した戦いの場面を描いたフレスコ画で飾られた「戦いの間」が必見。

 美術館には、エル・グレコ、ディエゴ・ベラスケス、スルバラン、リベラ、ティントレット、ティツィアーノ、ルーベンス、ヴェロネーゼの傑作が収蔵されている。

 また、古代の古文書を蔵書した図書館には、アルフォンソ10世「賢王」の「サンタ・マリア賛歌集」、聖女テレサ・デ・ヘススの作品、モサラベの写本、黄金の文字で書かれた「アウレオ(黄金)の写本」等がある。



☆ 写真集(外観) @ A B C D E F G H I

☆ 写真集(内部) @ A B C D E F  G H I 

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★El Escorial, Madrid, Spain


YouTube動画 その2
★San Lorenzo de El Escorial


YouTube動画 その3
★Spain 2006 - Escorial Segovia Avila(始めの3分の1がエル・エスコリアル)


YouTube動画 その4
★Royal Monestary (Britannica.com)


YouTube動画 その5
★El escorial




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2008年03月02日

マヨール広場&プエルタ・デル・ソル







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 マヨール広場(Plaza Mayor)は、マドリッドの中央広場で、もう一つの有名な広場、プエルタ・デル・ソル(Puerta del Sol)から、南西に数ブロック離れたところにある。

 マヨール広場は、129m、94mの長方形で、周囲は3階建ての建物で取り囲まれている。広場で最も際立った建物は、フレスコ画で飾られたカサ・デ・パナデリーア(Casa de la Panadería)でパン屋になっている。

 1581年、フィリペ2世(在位1556〜98年)が、ルネサンス時代の有名な建築家、フアン・デ・エレラ(Juan de Herrera)に依頼し、雑踏で混沌とした古いアラバル広場(Plaza del Arrabal)の再生が進められることとなったが、建設が始まったのは、フィリペ3世(在位1598〜1621年)の治世下、1617になってからであった。

 その後、大火があり、現在の建築物は、1790年に、Juan de Villanuevaによって再建されたもの。

 中央にあるフィリペ3世の騎馬像は、イタリア人フアン・デ・ボローニャ(Juan de Bolonia)の作品で、1616年に制作されたが、1848年になって、この場所に設置された。

 マヨール広場は、19世紀まで平日は市場として使われ、闘牛、サッカー、祭礼、行事にと様々に使われてきた。

 また、キリスト教に改宗しながらも、ユダヤ教、イスラム教の習慣を守る者に狙いを定めたスペイン異端審問が、この広場で行われた。

 周りの建物のアーケードには、カフェテラスや居酒屋、パン屋、みやげ物などの店が並ぶ。クリスマス時期には、クリスマス・マーケットが開かれる。

 プエルタ・デル・ソル(Puerta del Sol、太陽の門)は、15世紀のマドリッドの市壁にあった門の1つで、東に向かう門であったことから「太陽の門」と呼ばれ、17〜19世紀には、人々が集まる重要な場であった。

 広場の南側には、1768年にフランス人建築家マルケ(Marquet)によって建てられた、かつての郵便局(Casa de Correos)があり、四面に時計のある時計塔は、新年の鐘を鳴らすイベントのハイライト。

 建物前の広場には、スペイン各方面に延びる国道の起点で、0km地点が表示されている。

 また、18世紀、国力の低下により荒廃していたマドリードを再開発、プラド通りやシベレスの噴水など、現在にも残る近代的街並みを整備したカルロス3世(在位:1759〜88年)を称え、マヨールの王(the king mayor)とのニックネームで市民に親しまれている記念像がある。

 マリブランカ(La Mariblanca)と呼ばれるヴィーナスは、かつての泉にちなんだもので、市立美術館にオリジナルがある。

 北側にある石とブロンズで造られた「熊と山桃(madroño)」の像は、1967年に設置されたもので、マドリッドとカルロス3世の紋章を表わす。



○ マヨール広場

☆ 写真集 @ A B C D E F G H I

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○ プエルタ・デル・ソル

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YouTube動画 その1
★Diaporama Plaza Mayor de Madrid


YouTube動画 その2
★plaza mayor madrid spain


YouTube動画 その3
★La Puerta del Sol


YouTube動画 その4
★Plaza Mayor 2


YouTube動画 その5
★Plaza Mayor 2oo7


YouTube動画 その6
★Plaza Mayor, Madrid


YouTube動画 その7
★Luces de Navidad Madrid 2007. Cibeles, Plaza Mayor, Sol


YouTube動画 その8
★Noche Vieja 2006 en la Puerta del Sol, Madrid




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2008年02月29日

マドリッド王宮







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 マドリッド王宮 (Palacio Real de Madrid)は、前身のアルカサルの全焼後、18世紀半ば、フェリペ5世の命により、再建された宮殿で、スペイン政府が所有。

 マドリッドのダウンタウン西部、バイレン通り(Bailén)にあり、東はマンサナレス川(Manzanares)に臨み、オリエンテ宮(Palacio de Oriente)とも呼ばれる。

 現国王のフアン・カルロス1世(在位:1975〜 )と王族は、マドリード郊外にあるサルスエラ宮殿(Palacio de la Zarzuela)で暮らし、マドリッド王宮は国の行事に使用され、公的行事で使用される時以外は一般公開されている。

 マドリッドが歴史の記録に登場するのは、9世紀に、後ウマイヤ朝(756〜1031年、首都コルドバ)のムハンマド1世(852〜86年) によって、現在の王宮の位置に、前哨基地として「マイリット、mayrit」と呼ばれる要塞が築かれたときのこと。

 1036年、ムーア人のトレド王国が独立後はムーア人に継承された。

 しかし、1085年の、カスティーリャ王アルフォンソ6世が、マドリッドを攻略して以降、カスティーリャ王が、ここを使用することは、ほとんど無かった。

 1329年、アルフォンソ11世が、初めてマドリッドでコルテスを招集した。

 1561年、アブスブルゴ(ハプスブルク)朝のフェリペ2世(在位:1556〜98年)によって、宮廷がトレドからマドリッドに移され、古いアルカサル(Antiguo Alcázar)が建てられたが、1734年に全焼した。

 フェリペ5世は、同じ場所に新たな宮殿の建設を命じ、建設は1738〜55年にかけて行われ、フィリッポ・ユヴァーラとジョヴァンニ・バッティスタ・サンチェッティによってベルニーニ風に建てられた。

 1764年、新たな宮殿は、カルロス3世から使用された。



見所:

 広大な宮殿は、ベラスケス、ティエポロ、カラヴァッジオ、ゴヤ等の作品で飾られている。

 また、歴史的に重要性のある王家の収集品や、13世紀以降の兵器類を収める王立武具博物館、世界で唯一の弦楽四重奏用のストラディヴァリウスのコレクションの外、タペストリー、磁器類、家具などがある。

 宮殿西には、ムーア人にちなんだカンポ・デル・モーロと名付けられた庭園があり、宮殿の東ファサードは、オリエンテ広場とオペラハウスに面している。

 南側にはアルマス広場、南側にはアルムデナ大聖堂、北側にはサバティーニ庭園がある。



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★stradivarius palacio real 2


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★Palacio Real de Madrid


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★Regresa el cambio de guardia al Palacio Real


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2008年02月28日

アランフェス 王宮と庭園







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 アランフェス(Aranjuez)は、スペイン中央のマドリッド州南部に位置し、首都マドリッドから南に48km、また、トレドからも北東に同距離。

 人口約4万8千人の小都市であるが、ロドリーゴ(Joaquin Rodrigo)の名曲「アランフェス協奏曲(Concierto de Aranjuez、1939年)」から、この町の名は世界的に有名に。

 元々、アランフェスは、タホ川(Tajo)の肥沃な平原にあり、ハラマ川(Jarama)との合流点に広がる牧草地であった。

 1031年、コルドバを首都とした後ウマイヤ朝の滅亡後、イスラムのタイファ諸国が乱立し、この地方はトレドのタイファ君主の支配下に。

 1085年、トレドで内紛が発生すると、北のカスティーリャ王、アルフォンソ6世(在位:1072〜1109年)は、これに乗じて都市を包囲し征服。この際、キリスト教国カスティーリャの支配地はタホ川まで南下した。

 アランフェスは、カスティーリャ王国とイスラム諸国のはざまでの争奪の末、1178年、最終的にカスティーリャ王国に征服された。そして、王の庇護のもとに設立され、軍事と巡礼者の保護などの福祉活動を行っていたサンティアゴ騎士団(Orden Militar de Santiago)に与えられた。

 15世紀末、結婚と相続により、それぞれ、カスティーリャ女王イサベル1世(在位:1474-1504年)、アラゴン国王フェルナンド2世(在位:1479- 1516年)となったことにより、カスティーリャ・アラゴン連合王国が成立し、スペイン王国(イスパニア王国)が誕生した。

 この頃、アランフェスは、このカトリック両王によって王室の土地とされた。

 1516年、両王の次女、フアナが、ハプスブルク家のマクシミリアン1世の長男、ブルゴーニュ公フィリップと結婚。  後に、その長男がカルロス1世(在位:1516〜56年、神聖ローマ皇帝カール5世)となって以降、スペイン・ハプスブルク朝が始まった。

 この時代は、スペインがヨーロッパで覇を唱える一方、「新大陸の発見」による植民地獲得によって、隆盛を極めることに。

 1561年、フェリペ2世(在位:1556〜98年)は、国土の中央に位置するという理由で、バリャドリッド(現在のカスティーリャ・レオン州の州都)から、マドリッドに宮廷を移し、スペインの「首都」が初めて確定した。

 そして、同じく、フェリペ2世の命により、アランフェスの王宮(Palacio Real de Aranjuez)の建設も始められた。設計は、エル・エスコリアル(El Escorial)と同じく、フアン・バウティスタ・デ・トレド(Juan Bautista de Toledo) とフアン・デ・エレラ(Juan de Herrera)による。

 王宮は、1752年、フェルナンド6世(在位:1746〜59年)の治世下に完成し、アランフェス市が生まれたが、当時、ここに住んでいたのは宮廷関係者約千人だけであった。

 カルロス3世(在位:1759〜88年)によって、王宮に両翼が追加・拡張され、カルロス4世(在位:1788〜1808年)によって、「王子の庭園」が整備された。

 1808年、フェルナンド7世(在位:1808年、1813〜33年)が率いた蜂起「アランフェスの反乱」の後、カルロス4世が退位し、同年5月、ナポレオン軍がマドリッドに入城した。

 1851年、マドリッド、アランフェス間の鉄道が開通した。  1939年、ロドリーゴ(Joaquin Rodrigo)の名曲「アランフェス協奏曲(Concierto de Aranjuez)」が作曲された。

 2001年、王宮と庭園からなる景観が、何百年も維持され発展してきたことから、「アランフェスの文化的景観」として、世界遺産に登録された。

 王宮からタホ川に沿って広がる庭園は、森や庭からなり、多くの泉や像で飾られている。王宮正面の「パルテレ庭園」、タホ川と人工の川に囲まれた「島の庭園」、タホ川に沿って延びる150haの「王子の庭園」などからなる。

 マドリッドから、列車で約45分。春から夏にかけては、マドリッドから、19世紀の蒸気機関車による観光用の特別列車「イチゴ列車(Tren de la Fresa)」が運行される。



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2008年02月26日

オビエド 世界遺産プレ・ロマネスクの教会







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 オビエド(Oviedo)は、スペイン北部、アストゥリアス州の州都で、カンタブリア山脈の北麓に位置し、人口約21万人。

 アストゥリアスは、カンタブリアとともに、険しい地形のためにローマ時代、西ゴート時代を通じて、中央からの支配が及びにくい地域であった。

 8世紀始め、この地方はイスラム教徒に征服されたが、すぐに、ペラヨ(Pelayo)率いるキリスト教徒に奪還され、718年アストゥリアス王国が樹立されたレコンキスタ発祥の地。コルドバ陥落の1492年まで、800年近い長い戦いの始まりであった。

 761年、4代目の王フルエラ1世(在位:757〜68年)の治世下、プラビア(Pravia)から、オビエドに首都が移され、修道士マクシムス(Máximo)等によって、オビエドに小さな教会が建てられ、町が造られていった。

 8世紀末、アルフォンソ2世(在位:791〜842年)は、西ゴート王国の後継を自負し、アーヘンやトレドに倣って、宮廷や、教会組織を作り、司教座を創建するなど、オビエドを首都にふさわしい街とした。

 910年、アルフォンソ3世が亡くなると、王国は3人の息子の間で、レオン(León)、ガリシア(Galicia)、アストゥリアス(Asturias) に分割され、遷都によりレオンが首都となった。

 しかし、アルフォンソ2世によって、オビエド大聖堂(サン・サルバドル大聖堂:Cathedral of San Salvador)が建てられ、サンチャゴデコンポステーラへの巡礼路が整備されていたため、街は生き延びることができ、12〜16世紀には、市壁や水道施設が造られた。

 17世紀初期には、オビエド大学が創設された。

 近代に入ると、ナポレオンの侵入によって一時荒廃したが、近隣で産出される石炭、鉄鉱石を背景に鉱工業が発展した。

 20世紀に入ると、労働運動が盛んになり、1934年には、大規模な労働者の蜂起(アストゥリアス革命)が起こったが、のちに独裁者となるフランコ指揮の軍に鎮圧された。

 1936年に勃発したスペイン内戦においては、北部の重要な工業都市であったことから、反乱軍がこの都市の確保を重視し、早期に制圧された。その後、政府側との激しい攻防が展開されたため、再び街は荒廃した。

見所:
  
 イスラムに征服されなかったことから、オビエドとその周辺には、西ゴートの様式を受け継いだ8〜10世紀の建築物が残っている。

 アストゥリアス王国時代の教会は、プレ・ロマネスク様式と呼ばれ、後にヨーロッパ聖堂建築の一時代を築くロマネスク様式の先駆けとなったもの。

 1985年に世界遺産の登録を受け、1998年には対象範囲が拡大され、「オビエドとアストゥリアス王国の建築物」として拡大登録された。

○ サン・フリアン・デ・ロス・プラドス教会(Basilica of San Julián de los Prados @ A)  

 長さ30m、幅25mあり、スペインのプレ・ロマネスクの教会の中では最も大きく、内部の壁や天井にはフレスコ画が残る。

○ サンタ・マリア・デル・ナランコ教会(San Miguel de Lillo y Santa María del Naranco) @ A B) と
サン・ミゲル・デ・リリョ教会(San Miguel de Lillo @ A)

   オビエド市内を見下ろすナランコの丘にある。

 サンタ・マリア・デル・ナランコ教会は、9世紀半ば、ラミロ1世によって建てられた夏の離宮が、教会になったもの。西ゴートの伝統に、初期キリスト教とイスラムの要素が加わったアストリアス建築の代表作。

 サン・ミゲル・デ・リリョ教会は、サンタ・マリア離宮の礼拝堂として建てられたもの。 

○ サンタ・クリスティナ・デ・レナ教会(Santa Cristina de Lena) @ A B C D E

 オビエドから40km南にある代表的なアストリアス建築で、サンタ・マリア教会にはない、身廊と祭壇を隔てる障壁が設けられている。

○ カマラ・サンタ・デ・オビエド(Cámara Santa de Oviedo)

 アルフォンソ2世が造らせた宮廷内の礼拝堂「神聖な部屋」で、現在は教会の一部になっている。

○ フォンカラダの泉(La Foncalada

 アルフォンソ3世にちなんだ泉。



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2008年02月23日

ラ・リオハ サン・ミジャンのユソ修道院とスソ修道院







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 スペイン北部、ラ・リオハ州(La Rioja)は、スペインを構成する自治州の1つで、リオハ・ワインの生産地として有名。

 この地方は、ログローニョという正式な地名でも知られ、10世紀頃、ナヴァール王国とカスティーリャ王国が争った地域で、最終的には、1173年にカスティーリャ王国に併合された。

 ラ・リオハ州、サン・ミジャン・デ・ラ・コゴジャ(San Millan de la Cogolla)には、聖エミリアヌス(St. Emilianus / San Millan、473〜572年頃)に因んだ、修道院がある。

 聖エミリアヌスは、この地方の羊飼いから、Berceoの教区司祭となるも、職を辞して山にこもり、やがて彼を慕う者とともに始めた隠遁生活が修道院(Benedictine Abbey of La Cogalla)となっていった。

 6世紀に始まったスソ修道院は、簡素な建物であったが、1050年には、ベネディクト会のユソ修道院に発展し、下方のカルデナス渓谷(Cardenas)に、ルネサンス様式で建てられた。

 現存する最古のカスティーリャ語(Castilian)の文書が書かれたロマネスク様式のスソ修道院(スソは「上方」の意味)と、これを引き継ぎ、16世紀初期から今日までキリスト教の修道院として長い歴史を刻んできたユソ修道院(ユソは「下方」の意味)が、1997年に、「サン・ミジャンのユソ修道院とスソ修道院」として、世界遺産に登録されている。

見所:

〇 スソ修道院と考古学的遺跡群(Suso Monastery and Archaeological Sites, ID 805-002)

 世界で使われているスペイン語の誕生した地。聖アウグスティヌスがラテン語で書いた注釈 Glosas Emilianenses の写生文書に、カスティーリャ語が書き込まれた。現存最古のカスティーリャ語文書として貴重で、マドリッド郊外のサン・ロレンソ・デ・エル・エスコアリアルに保管されている。

 絶壁にもたれかかるように建っている教会、11世紀に建てられた聖オリア礼拝堂、聖エミリアヌスの横臥した死者像が保存されているサン・ミジャン祈祷所、岩をくり貫いて造られた小さな礼拝堂群(その1つが聖エミリアヌスの墓)など。

〇 ユソ修道院と修道院菜園群(Yuso Monastery and Monastic Kitchen Gardens, 世界遺産登録ID 805-001)

 1050年に、ルネサンス様式建てられたが、1367年に、イングランドのエドワード黒太子に荒らされ、16〜18世紀のルネサンス様式やゴシック様式で再建された。

 修道院の入り口にあるシマンカスの戦いを描いた「ムーア人殺しの聖エミリアヌス」のレリーフ、エル・グレコの画派に属する修道士フアン・デ・リッシ(Juan de Ricci)によって17世紀に描かれた主祭壇の祭壇画、天井にあるフレスコ画。

 16世紀半ばのゴシック・フランボワイヤン様式とルネサンス様式(2階部分)の2階建ての回廊と、11世紀の聖エミリアヌスの櫃などを納めた祈祷所、ルネサンス期からバロック期のフアン・デ・リッシやムリーリョの宗教画、12世紀のクルミ材の聖母像のある小美術館など。



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★LA RIOJA (la tierra con nombre de vino) PARTE2/2


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★Calatañazor - Soria - Eternia - Free Body Free Mind


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★Vinuesa Soria - Loreena MacKennitt-Tango To Evora


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2007年09月09日

セゴビア 「白雪姫」の古城と水道橋




 セゴビア(Segovia)は、スペイン中部、カスティーリャ・レオン州セゴビア県の県庁所在地で、人口は約5万人余り。マドリードから北西に約87km、鉄道で約2時間のため、日帰り観光地として人気がある。(地図

 セゴビアには古代から人が住んでおり、今でも完璧な姿で残る水道橋は、1世紀の中頃に築かれたもので、二層のアーチからなる雄大な姿からも、古代ローマ時代の繁栄振りがうかがわれる。

 また、長さ813メートル、高さ28.5メートル、128の美しいアーチで構成されている水道橋は、2万個以上の巨大な石を積み上げて作られており、ローマの高度な土木技術を物語っている。18キロ離れた水源から、セゴビアの町に水を供給したこの水道橋は、19世紀末まで実際に使われていた。

 その後、8世紀には、イスラム教徒に征服されたが、1085年アルフォンソ6世がトレドを征服した後、その娘婿ライムンド(レーモン)が、セゴビアに司教座を創建し、キリスト教徒を植民させた。

 羊毛や毛織物の取引が発展し、中世の終わりにセゴビアは最盛期を迎え、ゴシック様式の建築物が建てられ、アルフォンソ10世はアルカサルを王室の宮殿に変えた。また、1474年に、イサベル1世は、セゴビアでカスティーリャ王位に就いている。

 繁栄は16世紀末まで続いたが、その後はカスティーリャの諸都市と同様に衰退していった。

 旧市街は長く狭い高台の上に位置し、古代ローマ時代から中世までの歴史的建造物が数多く残されている。

 旧市街の西端、2つの川の間の岩山に建てられ、ディズニー映画「白雪姫」に登場する城のモデルにもなった古城(アルカサル)や、16〜18世紀に建築され、「貴婦人」とも称されるゴシック様式の大聖堂、それと古代ローマの水道橋などの名所があり、眼下には田舎の景色が広がっている。

 1985年、「セゴビア旧市街と水道橋」として、世界遺産に登録された。



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(下の方にスクロール、写真とホテル・リスト)

☆ www.ciudadespatrimonio.org
○ 観光スポットと地図

☆ セゴビア観光局HP

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2007年09月06日

メスキータ コルドバ歴史地区




 コルドバ(Cordoba)は、スペイン南部のアンダルシア州、コルドバ県の県都で、人口約32万人。グアダルキビール川右岸にある交通・商業の中心地で、皮革、金銀細工が伝統産業。(地図

 起源は古代ローマの植民都市で、ローマ寺院やローマ橋などの遺跡が現在も見られる。

 その後、西ゴート王国、6世紀のビザンティンの支配を経て、イスラム教徒・ムスリムがスペインを征服したのが711年。

 シリアのダマスカスを首都としていたイスラム王朝の「ウマイヤ朝」が、750年にアッバース朝によって滅ぼされると、その王族の1人であったアブド・アッラフマーン1世はイベリア半島に逃れ、756年に「後ウマイヤ朝」を建てた。こと時、コルドバに首都が置かれ、コルドバの偉大な繁栄の時期が始まった。

 10世紀には、アブド・アッラフマーン3世、ハカム2世の治世下、トレドと並んで西方イスラーム文化の中心地として発展。世界最大の人口を持つ都市となり、コンスタンチノープル、ダマスカス、バグダッドと、その繁栄ぶりを競い合った。

 この時代に、メスキータと呼ばれた壮大なモスクをはじめとする約300のモスクと、宮殿や街路、公共施設の数え切れないほどの建物、特に、大図書館が建てられ、多くの学者が活躍した。現在も、イスラム時代の文化を伝える建築物が多い。

 繁栄を極めたイスラム都市も、やがて、レコンキスタを唱えるキリスト教徒の勢力に巻き返しを図られ、ついに、1236年、カスティーリャ王国のフェルナンド3世に征服された。さらに、15世紀末に、レコンキスタが完了するとイスラム勢力が完全にイベリア半島から追われることに。

 その結果、13世紀にメスキータの一部は壊され、キリスト教のゴシック式聖堂や新たな防衛施設に改築された。その中でも、アルフォンソ11世が建てたアルカサル城やローマ橋の要塞門であるカラオーラの塔が著名。メスキータの窓などのイスラム装飾に、その名残が偲ばれる。

 メスキータやローマ橋などの建造物と、花の小径で有名なユダヤ人街を含めた「コルドバ歴史地区」は世界遺産に登録されている。 



☆ Cordoba24

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☆ ciudadespatrimonio.org

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2007年01月09日

グラナダ 観光情報

 グラナダは、スペイン南部アンダルシア地方にあり、シエラ・ネバダ山脈の北側山麓にあり、水に恵まれた肥沃な農業地帯の中心。(地図) 

 10世紀、古代ローマの植民市イリベリスの跡に街が造られ、11世紀イスラムのザイリー朝の首都となった。その後、カスティーリャ王国などキリスト勢力に追われ、イベリア半島におけるイスラーム勢力最後の牙城として、13世紀、ナスル朝ムハンマド1世の時代にグラナダ王国の首都に。

 イタリアのジェノヴァ商人などとの交易により、経済的繁栄を収め、14世紀後半、ムハンマド5世の治世下で、最盛期に。既に13世紀から造営されていたアルハンブラ宮殿の大規模な改修が行われた。

 1492年には、フェルナンドとイサベル両王が率いるキリスト教徒軍はレコンキスタ運動の終着地点、グラナダを包囲し、アルハンブラは無血開城に。

 かつてのアラブ文化の栄光を偲ばせるアルハンブラ宮殿をはじめ、王族の離宮で美しい庭園を持つヘネラリーフェ宮殿やイスラーム教徒のための居住区アルバイシン地区(上から2番目の写真)などが見どころ。
市内地図はこちら(開いた画面の上の地名Alhambra、Albaicínを押す)

 これらは、1984年に世界遺産(文化遺産)に登録された。

☆ HP(www.AlhambraDeGranada.org :Gallery of photographs

☆ HP(Apartments in Albaycin

☆ HP(www.granadatur.com Monumentos





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★A short tour through the Alhambra of Granada


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★LA ALHAMBRA


YouTube画像 その3
★Granada


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